雑記

140字じゃ書ききれないこと。 (@tkkr_g)

光の音色-THE BACK HORN Film- 初見

・「旅」
映画に出てくる死体は2種類、主人公の妻と、兵士・パルチザンたちである。兵士・パルチザンの死体は何者かに「足」を切断される。足のない身体はもう旅に出られない。一方で主人公の妻は足があり、夫が足となって共に旅に出る。その旅は「何処へゆく」かわからない、死に場所を探す旅(リアカーのパート)・死後の旅(妻と海辺へ歩くパート)である。兵士たちは死に場所を選べず死後も何処にも行けないが、主人公と妻は「旅」に出ることができる自由さを持っている。

・「植物」
度々いわゆる冬の状態の植物が描かれる。 花が終わってからの次の始まりまでのモラトリアムの状態であるとも言える。 たとえば葉の付いていない木、花の咲いていない草、道のわきの茶色い草...。それらは妻が死んだ後の主人公の側にある。一方、「生きている」状態の植物はそのままでは出てこないが、妻が生きていた頃のビンが付いている木がこれにあたるだろう。主人公が妻を埋めようとした後の川で出てくる不気味にゆらぐ大きな木は、主人公がそのモラトリアムの中にいることを暗示しているようだった。

・「白シャツの将司」
最近は普通のライブでは黒シャツを着ているボーカルの山田将司。白シャツはマニヘブのような区切りの時に着る正装のようなものだ。映画という主戦場と別の場所へのリスペクトなのかもしれない。
更に印象的なのはスクリーンを使った演出の時にシャツにも映像が映ることだ。彼は時に背景と同化し、時に背景から浮かび上がる。それはTHE BACK HORN自身の主観と客観が行き来したり、普遍的で主観にも客観にも当てはまるような歌詞、そしてこの映画そのもののロシアでの映像と溶け込むTHE BACK HORNの音楽と、ライブ映像として浮かび上がる音楽という構図を体現するかのようであった。そういった諸々の二項対立を越える媒介としての山田将司がそこにはいた。

・「アンコール」
ロシアでのストーリーは「何処へゆく」で終わり、ストーリーを不随しない「コバルトブルー」とエンディングテーマとしての「シンフォニア」で幕を下ろす。「コバルトブルー」という〈俺達〉の曲を介入させることは、このストーリーと鑑賞者(俺達)を繋ぐ役割を果たす。「シンフォニア」という〈始まり〉の歌を終わりに置くことは、主人公の生命が終わった後に妻との旅の始まりがあったように、映画の終わりを私たちの始まりに繋ぐ役割を果たす。
その2曲の映画と現実を繋げる役割はカメラワークにも表れている。「コバルトブルー」は端に少しカメラが見切れていて、「シンフォニア」ではだんだんカメラ・カメラマンが映り込んでくる。そうすることで少しずつ私たちがこの映画を他人事としてではなくかなりリアルに受けとることができる。

・「犬」
一番良い演技してたかもしれない。もふもふ。

・「傘」
主人公は自分が濡れるのをいとわず、パラソルを妻の上にさす。「SUMMER NUDE」でもあったように、傘は思いやり・優しさの表象として使われている。

・「劇半/BGM/主題」
この境界は1曲の中でも移り変わって面白かった。

・「映画として」
今の映画のストーリー性と、映画発明直後の穏やかさが良い感じに混ざってた。ハイブリッド。

・「他」
シーンの移り変わりの時に左からスーッて変わったり、ブラック画面が挿入されていた。あまり他の映画でない切り替わりだと思うが、何故そうなったのか。
それぞれのシーンが写真のよう(by.母親)。
ライブからストーリーに戻る時の音の切れ方が中途半端だったところがある。もっと余韻を大切にしてほしかった...。

 

 

[追記]

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