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雑記

140字じゃ書ききれないこと。 (@tkkr_g)

死者と共に生きる―共に歩く、そして名前を呼ぶ―

批評 THE BACK HORN

死の制度という授業のレポートで書いた『光の音色』からのバックホーン批評です。
これに他のことをごちゃっと詰め込んだものがそのうち批評家養成ギブス終了批評集に載ると思われます。でもこっちの方が好き(笑)。

 

 人は皆死ぬ―それは我々が生まれた時から唯一決定されている運命である。そしてその悲しい運命をどのように受け止めるのか。そのことは古来から宗教・哲学など様々な分野で考えられている。授業では、「愛する人が死んだとき、残された者はそれをどう扱うか」というテーマで色んな作品を見てきた。そこで私が感じたことは、「愛する人の死と向き合う」=「死んでいても愛する人と共に生きることと向き合う」ということだ。それは例えば、古屋誠一の作品で妻の写真や日記を残すことである。それを営みにすることによって、2人が出会ってからの妻の人生を古屋が背負い、死者と共に生きていくことができるのである。「愛する人の死」という出来事をどのように扱うのか、そのことを描いた映画とその題材になっているロックバンドを今回私は取り上げようと思う。
 2014年11月に公開された『光の音色-THE BACK HORN Film-』は、THE BACK HORN(以下、バックホーン)という日本のロックバンドの曲・演奏を元に熊切和嘉監督が映像・物語を織り交ぜた映画である。バックホーンの生と死に真っ向からぶつかる曲、そこからインスピレーションを受けた物語はリアルなまでに「愛する人の死と向き合うこと」を描いている。物語は理不尽な死に方をした妻を埋葬しようとしている老人のシーンから始まる。その老人は穴を掘ったものの妻を埋められず、〈旅を始めよう/祈りが途絶えそうな夜に〉で始まる曲(「月光」)の後、妻の遺体(と途中で出会う老犬)と共に子供の頃に2人で遊んだ海への旅を始めるのだ。
 物語の舞台は「世界の果てのような場所」である(撮影はロシアであるが)。その道は荒れていて、妻を台車で引きずりながら歩いていくことは老人の力と体力ではとても大変だ。そのように大変なことを老人は何故行うのか。全編に台詞はないので語られてはいないが、想像することはできる。愛する人は死んだがそこで愛する人の人生は終わるのか、理不尽なまま人生を終わらせていいのか、そのような想いから老人は妻と共に歩み始めるのではないか。それこそが老人が「愛する人の死と向き合う」=「死んでいても愛する人と共に生きることと向き合う」ことによる答えであったのだろう。「共に人生と歩む」という言い回しがあるように、「人生」と「歩く」ことはどこかで結びついていて、共に歩むことは共に生きることの表象としてこの映画では描かれている。
 「人はいつ死ぬのか」――「呼吸が止まった時」「心臓が止まった時」「『死んだ』と認識された時」「人に忘れられた時」……。この問いの答えは時代や状況などによって諸説ある。実際に私が祖父の死に病院で立ち会った時は、私や家族に「祖父が死んだ」という喪失感を最初にもたらしたのは心電図の静寂ではなく、その後の医者の「お亡くなりになりました。」という言葉であった。その時、目の前で人が死ぬ瞬間を目撃したにも関わらず、「人の生死の境目はなんて曖昧なのだろう」と実感したのを覚えている。
 この映画を見ていて、妻の命はなくても老人と共に旅をしている時はどこか観念的に「彼女はまだ死んでいない」と私は感じた。それは老人が妻と共に歩いて=生きているからである。最終的に目的地の海直前で老人は死ぬ(=妻も死ぬ)。しかし、その後に海に向かって歩く2人がスクリーンに映し出される。それは旅を共にした犬が見ている幻想なのだろうが、私たちもこの映画を犬と同じような立場(老人と妻の結びつきの外)で見てきたことで、犬と一緒に2人の歩みを見守っているような感覚になる。その感覚によって、物語の中で2人は死んだが、私たちの心の中では生きはじめる。つまり、老人が妻の命を背負った旅を見守ることは、犬や私たちがその2人を背負って共に生きていくことの始まりとなる(その後2人を背負って生きていけるかはその人次第であるが)。
そしてそれは死んだ祖父が私の心の中で生きていると感じることと近い―2人の旅=生から何かを感じ、忘れられなくなるような経験である。そのような経験はフィクションであろうと関係なく訪れるのだ。今私の中には実の祖父はもちろん、この映画の2人も生きている。命はなくてもその魂(いい言葉が浮かばないので仮にそう名付けておく)は生き続け、私の一部として私を豊かにしている。こうして、命は繋がっていく。もしも今後私が死んだとして、もはや老人と妻の原型は失われているであろうが、私の魂の一部として私の子供や友達へと受け継がれていくだろう。それは種、あるいは命あるものとしての大きな生命の連関である。私たちは個体としては生まれて死んでいく独立した命を持っているが、生命として遺伝子的にだけではなく精神的な魂も繋がっていくのである。
 命は死ぬが魂は生き続ける――これと似たメカニズムを持ち、「愛する人の死と向き合う」上で重要なものがある。それは名前だ。名前は生まれた時に付けられ、そしてずっとその人と共にあるものだ。そして、「N・N氏が死ぬときはその名の担い手が死ぬのであり、その名の意味が死んだとは誰も言わない。」とウィトゲンシュタインが言うように、名は人と共に死ぬのではなく生き続ける。バックホーンの「美しい名前」では、〈何度だって呼ぶよ君のその名前を/だから目を覚ましてくれよ/今頃気づいたんだ君のその名前が/とても美しいということを〉と曲のクライマックスで歌われる。このような「名前を呼ぶと死者が目を覚ます」気がするという想いは、ドラマなどでも人が死ぬ時に名前を呼ぶことに表れている(「光の音色」は言葉がないので名は呼ばないが)。川田順造『声』によると、「死者の名を呼ぶことは、死の側に入ってしまった者を、新生児の場合とは逆に、はっきり生者の側に位置づけながら、ことばによって生者とかかわらせる行為」である。つまり、名前は人と生を関わらせる力を持つものであり、死者の名を呼ぶことは死者を生の側に引き寄せて「死者と共に生きる」決意や願いのようなことであるのではないか。
 少ししか取り上げられなかったが、バックホーンの持つ死生観として「人は命をなくしても死なない」ということがある。生と死ははっきり境界がある二項対立なのではなく、どこか曖昧で境界のぼやけているものであると表象されている。もちろん、老人が妻を埋葬して一緒に生きてきた家で暮らすこともひとつの形であっただろう。しかし、2人は周りに他の家もない場所に暮らしていた。それでは2人の魂を受け継いで、共に生きる者がいない。2人は旅に出ることで、その旅を見守る犬(と観客)の存在を得た。そうすることで、2人の魂はより大きい生命の関わりを持つことができたのである。共に歩く=共に生きる=名前を呼ぶ―その生の側に死者を位置づけようとする営みは、「弔い」や「悼み」とまた少し違う営みである。これらも、「愛する人の死と向き合う」=「死んでいても愛する人と共に生きることと向き合う」ことのひとつの答えであるのだ。