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雑記

140字じゃ書ききれないこと。 (@tkkr_g)

過去と未来、そして現在が重なる時――映画『信長協奏曲』感想

信長協奏曲見てきました!おもしろかった!

なんだか映画だからか戦国BSRかと思うようなアクションシーンが多い(笑)。
秀吉見るたびに苦しくなります。

ひとまずひとつまとまった文章が書けたので。

 

 

 戦国時代にタイムスリップした歴史音痴の高校生・サブロー(小栗旬)は、織田信長として生き、戦のない世の中を作ろうとする、という月9ドラマの完結編。現代と戦国時代での常識の違いをうまく取り入れ、平和な世の中のありがたさを伝えてくれる物語――とメッセージだけ伝えてしまうと陳腐に見えるかもしれないが、その表現方法はとても鮮やかである。
 「信長は数年後に死ぬ」という運命、そして自分が今までにしてきた戦や改革も歴史の教科書通りであったことを信長は知ってしまい、「運命は変えられない」と落ち込んで帰蝶との結婚式を断ってしまう。だがその後、九死に一生の思いをした戦から戻ってきた時、信長は帰蝶(柴咲コウ)に結婚式を挙げようと伝える。結婚式をあげられることと信長が生きることを諦めなかった喜びに泣く帰蝶と信長の抱擁のシーンだ。もちろん観客もここで感動して「泣く」のであるが、この涙は帰蝶に感情移入している〈喜びの涙〉でも、2人を〈祝福する涙〉でもない。物語の幸せオーラとは反対に、むしろ観客の涙には〈切なさ〉が滲むのである。なぜなら、もうすぐ本能寺の変があって信長は死ぬ、という歴史を私たちは知っているからである。そこに運命を変えるかもという一抹の期待はあっても、だ。
 この〈歴史〉と〈知っている〉という言葉はこの物語を見る上で重要だ。〈歴史を知らない〉戦国の人と、「もうすぐ信長が死ぬ」という〈歴史を知っている〉サブローの対比。そしてそんな中でも信長が死なない〈運命〉=未来を模索しようとする登場人物達と、「信長は本能寺の変で死ぬ」という〈歴史〉=過去を憂いずにはいられない私たち(観客)の対比。そのような対比の二重構造の中で、物語は切実さを増していく。
 冒頭に述べたように、『信長協奏曲』は要約してしまうと「現代と戦国時代での常識の違いをうまく取り入れ、平和な世の中のありがたさを伝えてくれる物語――とメッセージだけ伝えてしまうと陳腐に見えるかもしれない」作品である。しかし、サブローや私たちが知っている〈歴史〉と、信長や登場人物たちが切り開いていく〈運命〉が重なる時、私たちは〈今〉をたしかに実感することができるだろう。

 

 

「信長は本能寺の変で死ぬ」という運命が変わらないこと(光秀との入れ替わりを含めてもつじつまとしては変わっていない)は悲劇ではなく、逆にこの歴史の制約があるからこそ、何度も死にそうになりながらも信長は生きることができたのだと思う。
あと、信長と光秀、信長(本能寺)と秀吉(幼少期)が傷の位置や炎などで対比されていて、綺麗だった。