雑記

140字じゃ書ききれないこと。 (@tkkr_g)

人を虎にする「想像力」――「文豪」と「ストレイドッグス」の関係

1.作品紹介

 朝霧カフカ春河35文豪ストレイドッグス』の話をしよう。『文豪ストレイドッグス』(以下、『文スト』)とは2012年から「角川コミックス・エース」で連載中の、文豪をイケメン・美女化したキャラクターがその執筆作品名を冠した異能力を使って戦う漫画である。

 この作品に対してのクチコミで有名なのが、「文豪関係ない」「全く元ネタ読んでないのが丸わかり」「話題性で実在の作家名を使っただけにしか思えん」等々、特に「文豪」達のキャラ作りへの批判だ。その一方で、特に中高生には人気を博し、アニメ化や外伝の小説化など大規模なメディア展開が行われ、起用声優やイベントにも大きな予算が投入されているという不思議なバランスの元に成り立っている。

 では、その批判理由をより読み解き、その一方で本当にその批判が的を射ているのか、そして何故人気でもあるのか、文学がわからないなりに『文スト』を解釈してみることがこの文章の目的である。

 

2.「文豪」とは

 そもそも「文豪」とは、大辞林第三版では「非常にすぐれた文学者。大作家。」とされている。文学そのものを学んでいない私からしたら「有名な小説家」くらいの印象だよな、うんうん、と、なにも問題なく話は進む。しかし、インターネットで調べたり、文学研究者の意見によると「存命中から評価されていた」「文壇的・社会的な権力があった」「女性作家や短命の作家は含まない」など、より狭義に使われることも多いようだ。定義に諸説あって明文化もされておらず、どうも怪しい言葉である。よって、ここで文豪の定義に首を突っ込むつもりはないと宣言しておく。文中でも混乱しないように、できるだけ「作家」などの単語で説明していく。

 

3.作家のキャラ化

 さて、では批判の内容に移ろう。「実在する偉人」を「キャラクター」に再構成する(=キャラクター化する)営みについてである。

 ここで厄介なのは、作家のキャラクター化とは、もはや一般的になった新選組や戦国武将などの、所謂「歴史上の人物のキャラクター化」とは構造が違うということだ。歴史上の人物は、例えば「豊臣秀吉=鳴かぬなら鳴かせてみよう・楽市楽座で商売上手」など、本人の逸話などの人物像=本人のイメージとなって私たちは豊臣秀吉を認識している(何度もキャラクター化されているため、そのキャラクターの印象を持っている部分もあるが)。つまり、キャラクター化しても本人の要素から抜き出されていてそう問題にはならない。

 一方で作家に於いては、やや複雑である。たとえば、小説の主人公と小説の書き手は必ずしも同一でない。そして小説に現れる表象も、どこまでが小説家その本人に関わるものなのか分別しようがない(それはテクスト論が持つ問題意識でもある)が、小説家のイメージを形成する要因のひとつである。つまり、小説家をキャラクター化する時には、小説家本人の逸話・小説の主人公・小説の物語など、幾つかのイメージの層が介在されているのだ。人物=イメージの間にひとつ「物語」の層があることがややこしい点だ。そこで、真正面から小説家そのものをキャラクター化してしまうことは、果たして作品に貢献するだろうか。小説家そのもののみをキャラクター化することは可能だろうか。結局はそれぞれの層のバランスで、人によって納得できるかできないかという問題になってしまう気がしてならない。

 だからこそ、作家そのものに対する先入観や再現にあたっての生真面目さが少ない中高生には現状のキャラクターたちはきちんと受け入れられている。そして、作品のテーマも、その世代に合致しているのだ。

 

4.文ストのテーマ

 『文スト』の序盤だけではたしかに、ただ文豪達が異能力を使って戦う漫画だとしか思えないかもしれない。作品の根底にあるテーマらしきものも見えず、ただキャラクターと異能力を使い捨てながら、何故かよく敵に狙われる主人公が困難に立ち向かっていく。しかし、単行本七巻あたりからその印象は大きく変わってくる。小説からの引用をキャラクターに言わせ、この言葉によって物語を進めようとするからだ。作家を主題とした作品らしくなってくるのだ。

 さて、この物語は孤児院を追い出された中島敦太宰治に出会い、彼の所属している武装探偵社に所属するところから始まる。そして、敵対関係にあるポートマフィアや海外から乗り込んできた組合(ギルド)と行われる三勢力戦争が、ひとつの節目である九巻までの内容だ。

 基本的にキャラクターの掘り下げが少ない(だからこそ「使い捨てだ」と批判される)作品である中、主人公の中島敦もそうであるが、鍵を握るのは「孤児」や「浮浪児」であった設定のキャラクターだ。具体的には、ライバルポジションであるマフィアの芥川龍之介、そして中島が物語のテーマに接近するきっかけを作った組合のルーシー・モード・モンゴメリなどだ。今回は触れないが、ヒロイン的なポジションの泉鏡花もそうである。

 組合に本当は協力したくないが、「一人ぼっち」が嫌で抜けられないモンゴメリを相手に、中島敦はずっと悩んでいた「自分は生きていていいのか」という自問を払拭するようにこう言う。

 

「でも孤独は 僕たちを永遠に支配する王様じゃなかった

探偵社に来てそれが判ったよ 孤独は

時に消え 時に現れる ただの朧雲だ

僕たちにもう少し 想像力があれば もっと早く気づけたはずなんだ

そうだ 凡ては想像力の問題なんだ」(7巻28話・中島敦

 

「想像力の問題」と聞いてサルトルを思い浮かべる人もいるだろう(私は此処に言及できるほどの知識を持たないので回避するが)。「想像」、つまり目の前の現実から離れて非現実の存在を想うことである。

 三巻で「暗殺をしない泉鏡花など生きる価値がない」と言う芥川に、中島は「人は誰かに『生きていていいよ』と云われなくちゃ生きていけないんだ!!」と激昂する場面がある。三巻時点で生きるために「他者の承認」という現実的で受動的な救済を求めていた中島が、七巻では孤独を解消するのには「想像力」だという非現実的で能動的な結論に辿り着く。たとえ誰かに認められている実感がなくても、少し想像すれば誰もが認められていて、それだけで生きていける。それがこの作品のメッセージである。

 

「生き方の正解を知りたくて 誰もが闘っている

何を求め闘う?如何やって生きる? 答えは誰も教えてくれない

我々にあるのは迷う権利だけだ

溝底をあてもなく疾走(はし)る 土塗れの迷い犬達(ストレイドッグス)のように」 (9巻36話・太宰治

 

 

 そして誰かに認められたいのは自分だけではない。誰もが形のない答えを求めて生きている――これが「文豪」の背後にある、「ストレイドッグス」の表象である。この点で特に中高生の心を掴んでいるのではないか。



 これまでで判ったように、『文スト』は表層ではキャラクター化を通して「文豪」を、深層では生きる意味というテーマを通して「ストレイドッグス」を描いた。まさに、人に尊敬される文豪と居場所のないストレイドッグスという正反対の概念を「文豪=ストレイドッグス」で結んでいると言える。

 だが一方で、他の職業ではなく作家を、そしてこの作家達をこの立場としてキャラクター化した理由を考えると、そのままの意味で文豪とストレイドッグスは対置されて「文豪≠ストレイドッグス」としても見える。「文豪=ストレイドッグス」ではなく「文豪≠ストレイドッグス」ならば、この人気の理由がわからない人の心を刺す可能性を持たないだろうか。

 

5.文豪と野良犬

 三勢力戦争のラストでは、組合のボスであるF・スコット・フィッツジェラルドに対して、中島と芥川が「双黒(コンビ)」を組むことで勝利し横浜を守る。その二対一の構図が成立するまでの間、中島と芥川はやたらと対立する。徹底的に自分の存在について、他者からの承認について――中島は「自分は探偵社にいていいのか」、芥川は「太宰に認められたい」と。しかし、フィッツジェラルドという金も権力もある圧倒的他者の登場により、二人の悩みは同じものであるとわかるのだ。「相手は自分が持っていないもの(力や地位)を持っているにも拘らず、それに気づかない愚か者だ」と互いに思って妬んでいたことを、互いに既に欲しかったものを持っていたことを知る。「存命中から評価され」「文壇的・社会的な権力があった」、つまり狭義の意味での「文豪」であるフィッツジェラルドと、他者から評価されない「ストレイドッグス」である中島と芥川という構造ができるのだ。

 

 そしてその構造は、中島の現上司、そして芥川の元上司である太宰によって仕組まれたものである。太宰曰く、「新しい世代の双黒(コンビ)が必要だ。まもなく来る”本当の災厄”に備える為に」。「新しい世代」とあるように、「旧い世代の双黒」とは太宰治中原中也(マフィア)だ。太宰がマフィアを抜けて探偵社に入って以来活動していなかったが、嘗て敵異能組織を一夜で滅ぼした黒社会最悪の二人組である。そして、旧い太宰・中原に対しての新しい中島・芥川を考えると、彼らのキャラクター化は無駄ではなかったように思える。

 太宰・中原は元になった作家が互いに意識しあったというエピソードも残っており、「コンビ」と言われるのも納得できる。そして中島・芥川の共通点は、「翻案小説」を主に書いていたことのように感じた。すると、たしかに中原や太宰は「原作」を書いていて、新旧で対比できるのだ(太宰は両方の有名作品があるので微妙かもしれないが)。これからの時代、「翻案」つまり先行作品を踏襲し、その物語を繰り返し紡ぐような作品も評価する必要があるというメッセージが伝わってこないだろうか。

 

6.KADOKAWAと想像力

 これは、なるほどとても「KADOKAWA」である。KADOKAWAは去年、ニコニコ動画を経営するドワンゴと合併したことが話題になった。そのことは、大塚英志『メディアミックス化する日本』で詳しく述べられている。大塚が度々物語について口にするのは、「物語にはオリジナルなどなく、過去の作品が重なりあって新しい作品を作っている」という旨のことだ。大雑把に言うと全ては「二次的(N次的)」な物語であり、「一次創作」など存在しない。それをニコニコ動画はうまく利用して展開していることはわかるだろう。だが大塚は、そこに違和感を感じているのだ。ニコニコ動画の収益構造は、「コンテンツ」「ソーシャル」と言いつつもその企業自体はなにもコンテンツやソーシャルを作っていない。作るのはユーザーである。ニコニコ動画、つまりドワンゴはそこで示される人気作品を吸い上げ、商業ベースに乗せることで収益を得ているにすぎない。そして、KADOKAWAも版権作品のメディアミックスで成立している出版社であり、とてもドワンゴに似ている。動画と出版社、巨大な勢力を持ったプラットフォーム運営会社が成立したことで、「物語を作るために想像力が管理される」構造が誕生するというのだ。

 今まで収益をあげない代わりに趣味で、文句も言われずに各々のプラットフォームを組み上げてやってきた同人活動が、統一されたプラットフォームの収益に巻き込まれてしまう。つまり、創作に他者からの承認が必要になるということだ(反転すると、鑑賞者には「承認する権利」がある)。私が実感した限りの出来事で言うと、たとえば、イラストなどのプラットフォームであるpixivでは、執拗に「○○(作品傾向など)がダメな人は見ないでください!」という注意書きが見られたり、「○○なんてあり得ない!」と自分の趣向を正当化してクレームを入れる人がいる。これは、それまでの同人サイトや同人誌ではあまり見られなかった現象だ。大衆ウケする作品もニッチな作品も、表示順序に差はあれども同じ立ち現れ方をする。効率化を重視するあまり、注意書きなどの前にサムネイルという形式で先に作品が目に入る。かつては「ダメなものは見なければいい」「そもそもプラットフォームが違うので目に入ることもない」「二次創作だからそういうのもあるよね」という寛容な状況があった。しかし、統一し管理するプラットフォームになったことですべてが平面化して見えるようになり、このように変わってしまったのではないか。

 

7.文ストとは

 『文スト』の物語自体も受動的か能動的かはさておき、結局他者からの承認が必要になるあたり、管理された中での「想像力」であるという点に帰結する。それは「文豪を扱う」という形式にも、キャラクター設定にも繋がる、必然的なものなのだ。言うまでもなく、「文豪関係ない」「全く元ネタ読んでないのが丸わかり」「話題性で実在の作家名を使っただけにしか思えん」といった批判も、その管理された想像力から生み出された反応である。

 「文豪≠ストレイドッグス」としての『文スト』は、置かれているメディア構造を顕著に作品内に取り込みながら、その欠点すらも皮肉にも現出させた作品であると言えないだろうか。