雑記

140字じゃ書ききれないこと。 (@tkkr_g)

「物語のためにキャラクターが使われるやつ」という呪い

 わたしは小さいころからアニメやゲームと共に過ごし、中学校以降はほとんどお互いの持っているさりげないアニメの推しグッズから意気投合したことで友人を作り、キャラクターの生きている土地を感じるために遠い聖地まで行っていた。現在は二次元のアイドルか声優の音楽しか聴かなくなり、スマホには7つ程度のソシャゲが入っていて、その中で推しイベントが開催されているものを並行してこなす毎日を送っている。そんなわたしが実を言うと、去年の一時期、フィクションというものに失望しかけていた。

 

 きっかけは映画『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』だった。スパイダーマンの声優が好きなため、デッドプール以外のアメコミ映画を見たことがないのにもかかわらず、去年の5月頃に映画館に足を運んでみた。そこで、映画の終盤に、スパイダーマンが物語から退場しまったのだ。それが何か「意味があって」のことならば納得できたのかもしれない(でも意味ってなんだ)。だが、退場の理由は悪役の手にした「世界中の半数の人間がランダムに消える」力が使われ、その消える何割かにたまたま入ってしまったからである。

 もちろん「ランダムなのだから仕方がない」のだろう。それは例えば東日本大震災時の津波のように、天災のようなものであるのだから。だが、「ランダム」なのはあくまで物語の中での話だ。この映画を見ているわたしと、同じレイヤーにいる「作者」にとっては、明らかに意図的に「物語の中で活躍の機会=役目を終えた」キャラクターたちを排除したにすぎないのだから。それを彼が消えゆくシーンを見ながら察してしまったわたしはとてもやるせない気持ちになったし、それと同時に、これまでにも同じようなことを思った経験がたくさんあったことを思い出した。

 物語の成立のために、そこにいるキャラクターたちが窮屈そうに、時には物語の要請によって行動をする――「物語のためにキャラクターが使われるやつ」とわたしは呼んでいるが、そう名付け(?)てみてからは様々なところでそれを発見している。特にメディアミックスが盛んに行われていたり、「アベンジャーズ」シリーズのように様々な作品からキャラクターを招集したお祭りのような作品で、多く見られるように思う。もちろん、キャラクターのために物語が死ぬのもよくない。だが、わたし自身がキャラクターに強く思い入れを持つタイプであるからこそ、この状況に気づいてとても悲しくなったのだ。一度そうなると、キャラクターがさんざん迷った後に何かの決断をしても、それを「また作者はわたしたちの望む方へキャラクターを誘導し、このセリフを言わせただけではないか」と思うようになった。その決断により笑っているイラストを見て、「本当にその笑顔は心からの笑顔かい?」と思うようになった(※『あんさんぶるスターズ!』イベント「レクイエム*誓いの剣と返礼祭」にて)。

 

 そんな呪いを受けても、わたしはまだフィクションに接している。なぜなら、それでもなお、「オタク」をやめられないほどの出会いがあったからだ。

 

 ちょうど同時期に流行り始めていた『ヒプノシスマイク』の楽曲をとても軽率に聞いてみた。言うまでもなく良かったので、ドラマパートと声優の出演するニコ生にも触れたところ、ずぶずぶと「沼」に引きずり込まれてしまったのだ。だが、もちろん前に受けた呪いは効いているため、今でもドラマパート(と最近始まったコミカライズ)については懐疑的である。しかし、ニコ生はラップそのものの楽しさと同時に、そこで演じている声優のキャラクター観や、行われるコーナーでの「事故」がドラマパートとは少し違ったように表れていて、その「揺らぎ」がリアルでとても魅力的だったのだ。

 その後、『ヱクリヲvol.9』で何か書こうと思った時に上り調子であるヒプマイについて書こうとして考えたところ、この「呪い」、そしてキャラクターの敵について考えるとコンテンツを画期的に捉えることができると閃き、書き上げることができた。

 だが、それは鎮静剤のようなものに過ぎなかった。前述したように、ヒプマイにも懐疑的な部分があり、更に『ヱクリヲvol.9』が発行された後にコミカライズが始まって、ストーリーとしての「揺らぎ」は作者(シナリオは全て同じ人が担当している)の手によって束ねられていることが明白なものとなった。それまで育んできた解釈を裏切られたファンの反応もなかなか痛快なものではあったが(二次創作でファンが自分のキャラ観を表現し、正当化することができるようになったのも最近のことである)、それにしても「原作」=一次創作であるにも関わらず、キャラクターを寄せ集めてのお祭り作品のようなものとなっている。

 

 

続きは5月末にDVDが届いて気が向いたら