雑記

140字じゃ書ききれないこと。 (@tkkr_g)

「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」というクソ面白い世界

リハビリがてら夏アニメで批評を一本、と思い、下セカとクソコラについてざっと書いてみました。
時期的になんか政治的な文章にも取れるかもしれません珍しく。

言語ゲームの違いは退屈と非退屈を生み出す。

 

 

 


 2015年夏クールアニメ、

www.shimoseka.com

下ネタという概念が存在しない退屈な世界』</a>について。

 

 私たちは「下ネタという概念が存在していない退屈な世界」を指差しで面白おかしく見る。それは私たちの世界に下ネタが存在しているからだ。そして、下ネタが存在すればこの作品世界も「退屈じゃない世界」になるとタイトルでは示しているのだが、そうなってしまうと私たちから見て退屈な世界になってしまうだろう。

 このアニメは最終回で「俺たちの戦いはまだまだ続くEND」を示した。もちろん尺の問題もあっただろうが、私はこの結末に呆気なさを感じた。なぜなら、まだその社会・世界・そもそも彼らの通う学園でさえも「退屈じゃない世界」にできておらず(エロは流布できたが、私たちから見ておかしい状況であるからその問題を克服できたとは言えない)、ただ本当に「戦いの日々」(オープニングナレーションより)を描いたのみであるからだ。「圧政からの開放」を目指したが、その目的の到達にはほど遠いと言えるだろう。この作品は、(少なくとも今期では)革命を夢見るだけで描くのには届かなかったのである。

 しかし、私はこの距離感がとても「今っぽい」と考える。

 この状況はクソコラと近いのだ。ISSの人質事件や安保法案改正という大きな事件の際に、Twitterでその状況をふざけてコラージュした画像が出回った。まさに当事者(というと語弊があるが)からすると変えたいと思っていることに対して、面白おかしく楽しんでしまうというものだ。それは問題の解決=革命ではなく、まさにその場で戦っている人の「戦いの日々」の図を求めている態度ではないか。その態度が「下ネタという概念が存在していない退屈な世界」を形成しているのではないか。

 「だから革命を起こせ」と言うのがこの文章の目的ではない。だって仕方ないじゃない、私たちは革命を知らない(「革命」という実践=言語ゲームを完全に営めていないから)のだから。それは何十年も戦ってきた人たちがいて、事件もたくさん起こって、けれど「世界は変わらなかった」からである。ただ、そんな世界を、この状況を、私たちは文化として内在化して、クソコラという文化を位置づける試みを私はしてみたかっただけである。

 きっと革命という概念がなんたるかを知る人から見たら、「革命という概念が存在しない退屈な世界」というクソ面白い世界を発見することができるだろう。

 

 

9月24日10:30 追記
変におとぎばなしにしかすぎない革命を描ききるより、下セカはよっぽど私たちの世界に対して真摯に向き合っている表現なのではないかと思います。