雑記

140字じゃ書ききれないこと。 (@tkkr_g)

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「憧れ」を胸に「自分になる」物語――劇場版『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』感想

※筆者はTVアニメ版1~3期を流し見した程度のライト視聴者なので、深みを知っている方はご一笑ください

 

 今までのTVアニメ版を観た限り、ウマ娘という作品の良さはウマ娘たちの「がんばってる姿」「挫折と立ち直り」「一瞬の輝き」「勝利に向けての泥臭さ」など。スポ根を織り交ぜた、真っ直ぐでひたむきな眩しい青春の味がする作品だった。

 だが、劇場版になった本作は明らかに違う。

 

 「どこかで見たことがあるカット」「プリズムの演出」「アニメーション的な形状崩し」「線の多用」が乱立し、アニメお約束の「水着回」「合宿回」「温泉回」「お祭り回」を余すことなく踏襲し、全てのシーンが強く印象に残るように作られていたといえる。

 こうした強いカットの乱立は、普段見るような作品ではあまり見ない。詳しくはないが、乱立するとしてもその作風の中での乱立だと思う。基本的にはタブーだろう。なぜなら、1本の作品として人の心に残るにはメリハリが必要で、ずーーーっとサビが形を変えて続くような作品はむしろ「どこも強調していない」ということになるからだ。

 実際、そういった表現を何の目的で入れているのかわからなかったし、視聴後感としては画の主張が常に強かったせいでかなり疲れている。映像表現は元々、伝えたいテーマや物語を補佐しより伝えるために存在するのに、その目的から逸脱していると言っていい。

 

 では、なぜそんなことをしているのだろうか。考えてみたい。本作の物語の主軸は主人公のジャングルポケットが「憧れ」で養成学園に入学し、「挫折」し、初心を思い出して「復活」、そして「さらなる勝利を目指す」といういつもの流れであった。おそらくいつもの流れだったからこそ強い映像表現が連続しても難なくストーリーを追えたのだが、それだとしてもわざわざ作風の変更した理由がなく見える。

 

 TVアニメ版と大きく違うのは、アグネスタキオンの存在だ。彼女はウマ娘という種について疑問を持ち、「がむしゃらに走る」こと以外で速くなり、「ウマ娘の限界を知る」という勝つこと以外を目的とした。彼女の存在は誰から見ても「ウマ娘的」ではなく、作中でも強烈な異物として描かれる。ジャングルポケットの挫折は、アグネスタキオンという大きな影に巻き込まれてしまったことでもたらされる。二頭が出馬した皐月賞か何か(覚えてない)でアグネスタキオンは優勝した後にレースへの出場を休止し、いわば勝ち逃げをする、負けたジャングルポケットは彼女の限界を超えた走りの影に囚われ、自身が優勝しても「アグネスタキオンがいたら勝てていなかった」と思うようになってしまう。

 物語の流れがTVシリーズ版と一緒であっても、この異物の存在で深みが増した。「ウマ娘とは何か」を問う存在が作中に登場したことで、これまで「そういう種である」で片づけられていた「速くなりたい」「勝ちたい」「走りたい」といった欲求がより痛いほど浮かび上がる。

 

 TVアニメ版は所感だが、「愛馬を見つけ、いるなら共に応援し、その物語を見守る」もので、ウマ娘というコンテンツに入ってもらい、より楽しむためキャラクター中心の作品だった。ターゲット層はそういうのが好きな人に限定されていた(映画館には親子もおり、「○○可愛い」などと小学生くらいの子供が話していた)。しかし、本作はそうではないわたしがここまで感想を抱けるほど、より広く、そして何かを感じる作品になっていた。

 思い返すと、冒頭に映されるゾートロープ(じゃないかもしれないがそういうやつ)、アニメーションを司る「光」の表現、コマフィルムのようなものが並べられたシーン――おそらく、きちんとアニメーションというものを、映画というものを見つめなおしているようだった。そして過剰な映像表現を通して、わたしはたしかに本作から「何か作品になろうとする気概」を感じたのだ。

 

 先に述べたが視聴後感がかなり疲れた上、演出そのものの意図はよくわからなかったように、おそらくまだ試みとしては途上のように思える。だが、本作を制作したCygamesPicturesは2016年設立の、アニメ制作数もそれほど多くない新しめのアニメーションスタジオだ。会社としての特徴もできあがっていないのかもしれない(他はブレイバーンくらいしか見ていないので知らないが)し、ただウマ娘の熱量に感化されて制作ボルテージが上がってしまったのかもしれない。理由はともかく、本作そのものが過去のアニメーションへのリスペクトと、ウマ娘らしさを継承し、まさに「新時代への扉」を開こうとがむしゃらに走っているように思えたのだ。

 

 ウマ娘は何故か、先輩ウマ娘を見て「こうなりたい」と憧れて走り始め、その後自分らしさを確率していく。同じく、このアニメーションスタジオもこれまでのアニメーションを見て「こうなりたい」と憧れた気持ちを詰め込んだのかもしれない。スタジオはまだ走り始めたばかりで、これからも走り続けていくことだろう。彼らはどのような「らしさ」を確率して、これからのウマ娘を描いていくのだろうか。目が離せない。

ゲームの批評的分析理論(+実践的分析例として「ゲーム実況」について)

 『ヱクリヲ vol.5』に掲載した「ソーシャルゲームパラドックス」で行ったゲーム分析の具体理論をここで解説する。本誌では趣旨から逸れてしまうため割愛しかつ大雑把な説明だけに留めたが、この分析を経たからこそあの文章を書けたという貢献をしてくれた。その供養の意を込めてここに記しておきたい。

 とはいえ、この理論自体は生きたものであり、これによってこれまでのゲーム批評でよく語られてきた「体験」と、それが様々な質で折り重なって形成される「経験」がどのようなものであるかを読み解くことができるものとなっている。そこには事実/虚構、プレイヤー/キャラクターという対比だけでは語れないゲームの面白さが表出するのだ。

 

ゲームの批評的分析理論

 さて、これまでに様々な人が書いてきたゲーム批評の中で、ゲームの体験の質を考察するものは概して3つの形態をとって存在した。

 ひとつめは東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)で語られている「やり直し、繰り返し可能な物語=ゲーム的リアリズム」という、ゲームらしい物語の「構造」に着目する方法(①)である。これは小説など他のメディアでは1周すれば物語が完結するのに対し、ゲーム(特にここでは美少女ゲーム)は周回プレイをして分岐しているルートを辿りながら補完していくことでひとつの大きな物語が成立するというものだ。

 ふたつめは宇野常弘『ゼロ年代の想像力』(2008、2011文庫版で確認)に書かれている主人公の「表象」で語る方法(②)である。ここでは主人公のアイデンティティが「〇〇であること」=『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジのように戦うために理由が必要で悩むような「引きこもり主義」であるものと、「〇〇をしたこと」=『Fate/stay night』の衛宮士郎のようにある意味肝が据わっていて「生き残るために戦う」ことに迷いがない「決断主義」という2パターンに分類している。

 そしてさやわか『僕たちのゲーム史』(2012)『キャラの思考法』(2016)における主人公の「視点」を巡る方法(③)である。ゲームにおけるカメラの位置は、欧米のゲームに多いFPS的な主人公視点のものと、日本のゲーム特有のTPS的な「主人公の背中が見える」ものがあるという。

 それらはゲームにおける「プレイヤーと主人公(キャラクター)の距離」の問題であり、大雑把にではあるが、ゲームのそれぞれの体験においてキャラクターから見たように描かれているか、プレイヤーから見たように描かれているかの分類であるということだ。この手法によって分析された経験の質はそれぞれ以下のように整理できる。

 3つの考察をこう整理した上で、私は更にもうひとつの項目を加えた(④)。

 

 

①構造

・キャラクター的=1ルートで物語が完結する(例:『ペーパーマリオRPG』)

・プレイヤー的=ゲームの周回要素を考慮に入れる必要がある(例:『Dies irae』)

 

②表象

・キャラクター的=生まれや過去などのプレイヤーと同一化できない部分がアイデンティティ(例:『魔界戦記ディスガイア』)

・プレイヤー的=「ゲーム内でなにをしたか」がアイデンティティ(例:『GRAVITY DAZE』)

 

③視点

・キャラクター的=主人公の視点で進む(例:『囚われのパルマ』)

・プレイヤー的=主人公を画面に映した視点で進む(例:『ロックマンエグゼ』シリーズ)

 

④操作

・キャラクター的=主人公を操作して世界を救う(例:『星のカービィ64』)

・プレイヤー的=主人公は指揮や編成のみ、バトルをするのはまた別のキャラクター(例:『魔法使いと黒猫のウィズ』)



 上から3点は物語やカメラなど、他のメディアでも援用できる要素からゲームを見たものだ。実際に、小説などへ①の想像力が波及している様を「ゲーム的リアリズム」として描いているし、②においては元々アニメやドラマなどで分析した分類をゲームに当てはめており、③は『MAD MAX』などの映画と関連付けられる。もちろんこれら他メディアの想像力に影響されてゲームは作られているが、「ゲーム」批評をするに従い、そこにゲームならではの体験を追加する必要があるのではないかと私は考えた。そのため④を追加した。

 私たちはゲームにおいて、主人公個人や設定されているキャラクター群などから誰かしらを軸にゲームを進めていくからだ。『うたの☆プリンスさまっ♪』であれば名前変更可能なヒロインを、『テイルズオブシンフォニア』であればロイドやクラトスなどのパーティメンバーを操作するように。この2作品では操作キャラクター自らが伴奏を弾き(=音ゲー部分の主体となる)、バトルフィールドに立って攻撃を繰り出すことができる。キャラクター視点であれプレイヤー視点であれ、プレイヤーはゲームの主軸となる部分を主人公を通して体験することができるのだ。しかし『ポケットモンスター』シリーズなどでは、主人公自身は戦わない。プレイヤーは主人公を通してバトルフィールドに立つポケモンに指示を出す。それはバトルそのものを体験する楽しみとは違った体験であると言えないだろうか。ゲームをやる時に、「自分はそこで何ができるか」についても考える必要がある。つまり構造や表象や視点が同じであっても、「操作」についての体験の質は大きく変わってくるのではないか。

 

 「主人公キャラクター」としてなりきってプレイするか、「プレイヤーである」ことを保ったままやるか。それによって、ゲームをして得られる体験の質、つまり経験は変わってくる。それをこの分類によって見ることで、私たちが「そのゲーム」において何を体験し、経験しているのかを解きほぐすことができる。

 例えば、日本産の大作RPG=JRPGは「キャラクター構造/キャラクター表象/プレイヤー視点/キャラクター操作」と分類できとてもキャラクター的な経験を得られる一方で、美少女ゲームはキャラクターとプレイヤー両方を往還していて分類しにくいことが多くその揺らぎが醍醐味であるといった結論が得られる。具体論は『ヱクリヲ vol.5』をぜひ参照していただきたい。

 

実践的分析例として「ゲーム実況」について

 『エクリヲ』ではその分析がソーシャルゲームには通用しない様を描き、そしてその分析を適応させて新たに得られた解釈を披露しているわけだが、本稿ではソーシャルゲームと似たベクトルを持ったゲーム文化である「ゲーム実況」について少し触れたい。

 というのも、ソーシャルゲームは単なるキャラクター/プレイヤー分類では捉えきれず、その「ゲームをプレイする自分を更にプレイする」というメタ的なキャラクター視点を諸々の理由で獲得することで、構造、表象、視点、操作共にキャラクター的な経験を得ることができるものだ。その真逆のメタ的プレイヤー経験である「ゲームをプレイするキャラクターを更にプレイする」ことで、プレイヤー経験を得られるのがまさしくゲーム実況(を見ること)なのである。

 

 ゲーム実況は、ひとつのゲームに対して様々な実況者の動画を見ることができる。特に『マインクラフト』のような制作系、または『スプラトゥーン』のような対戦型のものではコラボ動画などで複数の視点からゲームを見ることができ、視聴者はそれらを補完しながらそのゲームを経験する。そして実況者がどのような人だからこの行動に及んだかといったものは関係なく、その動画(シリーズ)内でどのような(リ)アクションをしたかという「表象」が重要視され、それによって動画につけられるタグが変化していく文化もある。視点においては投稿者の編集によって解説文などのメタ情報が付与されることも多いことに加えてコメントであったり、フルスクリーンで見ない場合には周囲の動画サイトのUIが視界に入ってくる。視聴者にできる操作はキャラクターに指示を出す行為のようにコメントを書き込むことや、キャラクターを乗り換えるように視聴動画を変えることだけである。

 

 そして、特に気になるのはVOLALOIDなどのような音声合成ソフトによる実況文化である。一般的には実況者=ゲームプレイヤーであり、喋りながらゲームをするものであった。しかし、人の声の方が聞きやすいにもかかわらず、ゲーム動画を撮り終わったあとの編集段階で機械による実況を加えたものが多く投稿されているのだ。そこにはもちろん、喋りを後に入れることでゲームプレイに集中できるというメリットもある。加えて、「誰が・どのような人が実況しているか」(=どんな人か・キャラクターとしての主人公の表象)を隠蔽する効果をもたらし、その人のスキルや腕前(=やったこと・プレイヤーとしての主人公の表象)により焦点を当てて見ることができるようになっている。

 ゲームの実況者といえばそのキャラを生かして喋って人気を獲得していく印象があるだろう。しかし、上述したような形式においては結月ゆかりのような既にあるキャラクターに主人公(=実況者)を代替することで、よりプレイヤーとしての側面を強調しながらにゲーム実況を楽しむことができるというパラドックスを抱えていると言える。

『マジLOVEスターリッシュツアーズ』初フライト感想

旅の記録として、9/3の初フライトの感想をつらつら書いておきます。もちろんネタバレ満載。

最新の最高のエンタメを見ました。が、衝撃が強すぎて割と記憶が飛んでるため割と個人の情緒の話が中心です。

よく考えられた上質なエンターテインメントを味わえるので万人にオススメです。人類みんな見てくれ。

 

↓ネタバレじゃない感想

 

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龍が如く6染谷巧と小栗旬について

龍が如く6の染谷役に小栗旬をキャスティングしたの天才すぎる話していい?(龍が如く1〜7全てクリアしました。)
いいよー!
やったねありがとう!

―――

わたしが経由した小栗旬といえば映画ハガレンのアルフォンス、花男の花沢類、イケパラの佐野、信長協奏曲の信長/秀吉なのですが(ドラマをあまり見ないで育ってきたのでマジでこのへんしかちゃんと見てない。ごくせんも1は見てない)、全員「完璧な人・理想的な人として出てくるが、実はやりきれない想いを持っていてそれが爆発する」系だったと思う。
染谷も例にもれずこれで、本人が「桐生と似てるとこがある」と言うように力と策略だけじゃなく、それに加えて人を格好良さで惚れさせて出世してる(このタイプの敵は龍ではあまりいなかった)。
桐生をヒーローとして見てきた人にとっては、それが作中で表現されきってたかというと微妙かもしれないが、理屈としては染谷は「理想的なヤクザ」となる。

染谷キャラクター紹介
(巧って名前なのね)
http://ryu-ga-gotoku.com/six/cast/?page=someya


そんな染谷のやりきれなさがめちゃくちゃ良かったのが、仕事柄元妻に愛想を尽かされ出ていかれたけど最終的に彼女も巻き込まれて人質に取られたことで「俺は狂っちまったんですよ」と理由も話さずに桐生に立ちはだかるシーン。

龍が如くでは極道の夫婦関係が全然描かれず、いきなり「父と子」の話をしはじめる(唯一の極道の女・堂島弥生は登場時未亡人で、どちらかというと六代目になろうとする大吾の母としてでてくる)。
それはたぶんオイディプス的なアレとか、極道の上下関係を親子で表すからってことなんだけど、全く描かれないのも不自然だなーと思ってた。
(だから妻帯者がいるかわからずみんな腐女子の餌食になってくんだ)

桐生が1で妻なくいきなり父になったとか、1で愛する女を亡くしてしまったとか(2のヒロインとはキスしてたけど警官だしワンナイト的な印象でしたね)そういうことの弊害かもしれないとも思うけど、今までのシリーズで捨象されてた部分が更に上述した「小栗旬」という俳優(わたしの小栗旬フィルター)を通して、ようやく表現されてたのがなかなか感動した。
完璧でいつも余裕で(サウナのシーンありがとうございます)クールな染谷の人間らしい部分に、「染谷〜〜〜〜〜〜!!!!!」となった。
理由話さずに「狂っちまった」と表現するとことか、キザでいいよね。小栗旬小栗旬ではない)。

最終的に「染谷を殺さなければ元妻(桐生が世話になったスナックのママ)を殺す」と迫られて決断できない桐生に、「俺を殺せ」と頼み、最終的には切腹して死ぬ。
あんなに野心丸出しの人だったのに、めちゃくちゃ元妻大事にしてて「何!?!?お前そんなんだったの!?!?!?」となる。
おそるべし染谷。


そういった夫婦関係だとか愛の貫き方とかが桐生と違った部分というか、1で抱えてしまったある種の業がなかった「if桐生」として桐生最終章の6で立ちはだかるにはいい人物だったのかと思う。
その後にジジイたちが足掻くのが見苦しすぎてね……。まあそれも人間らしい。



染谷はカップリングする相手がいないからか、二次創作が全然なくてノーマークでしたが、噛めば噛むほど染谷はいいぞという話でした。
おかげでわたしが選ぶ龍最強パに入りました。
真島、西谷、世良さん、大吾ちゃん、峯、品田、染谷、趙になります……(絞れないので控え含めで8人)
おめでとう染谷(?)

「物語のためにキャラクターが使われるやつ」という呪い

 わたしは小さいころからアニメやゲームと共に過ごし、中学校以降はほとんどお互いの持っているさりげないアニメの推しグッズから意気投合したことで友人を作り、キャラクターの生きている土地を感じるために遠い聖地まで行っていた。現在は二次元のアイドルか声優の音楽しか聴かなくなり、スマホには7つ程度のソシャゲが入っていて、その中で推しイベントが開催されているものを並行してこなす毎日を送っている。そんなわたしが実を言うと、去年の一時期、フィクションというものに失望しかけていた。

 

 きっかけは映画『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』だった。スパイダーマンの声優が好きなため、デッドプール以外のアメコミ映画を見たことがないのにもかかわらず、去年の5月頃に映画館に足を運んでみた。そこで、映画の終盤に、スパイダーマンが物語から退場しまったのだ。それが何か「意味があって」のことならば納得できたのかもしれない(でも意味ってなんだ)。だが、退場の理由は悪役の手にした「世界中の半数の人間がランダムに消える」力が使われ、その消える何割かにたまたま入ってしまったからである。

 もちろん「ランダムなのだから仕方がない」のだろう。それは例えば東日本大震災時の津波のように、天災のようなものであるのだから。だが、「ランダム」なのはあくまで物語の中での話だ。この映画を見ているわたしと、同じレイヤーにいる「作者」にとっては、明らかに意図的に「物語の中で活躍の機会=役目を終えた」キャラクターたちを排除したにすぎないのだから。それを彼が消えゆくシーンを見ながら察してしまったわたしはとてもやるせない気持ちになったし、それと同時に、これまでにも同じようなことを思った経験がたくさんあったことを思い出した。

 物語の成立のために、そこにいるキャラクターたちが窮屈そうに、時には物語の要請によって行動をする――「物語のためにキャラクターが使われるやつ」とわたしは呼んでいるが、そう名付け(?)てみてからは様々なところでそれを発見している。特にメディアミックスが盛んに行われていたり、「アベンジャーズ」シリーズのように様々な作品からキャラクターを招集したお祭りのような作品で、多く見られるように思う。もちろん、キャラクターのために物語が死ぬのもよくない。だが、わたし自身がキャラクターに強く思い入れを持つタイプであるからこそ、この状況に気づいてとても悲しくなったのだ。一度そうなると、キャラクターがさんざん迷った後に何かの決断をしても、それを「また作者はわたしたちの望む方へキャラクターを誘導し、このセリフを言わせただけではないか」と思うようになった。その決断により笑っているイラストを見て、「本当にその笑顔は心からの笑顔かい?」と思うようになった(※『あんさんぶるスターズ!』イベント「レクイエム*誓いの剣と返礼祭」にて)。

 

 そんな呪いを受けても、わたしはまだフィクションに接している。なぜなら、それでもなお、「オタク」をやめられないほどの出会いがあったからだ。

 

 ちょうど同時期に流行り始めていた『ヒプノシスマイク』の楽曲をとても軽率に聞いてみた。言うまでもなく良かったので、ドラマパートと声優の出演するニコ生にも触れたところ、ずぶずぶと「沼」に引きずり込まれてしまったのだ。だが、もちろん前に受けた呪いは効いているため、今でもドラマパート(と最近始まったコミカライズ)については懐疑的である。しかし、ニコ生はラップそのものの楽しさと同時に、そこで演じている声優のキャラクター観や、行われるコーナーでの「事故」がドラマパートとは少し違ったように表れていて、その「揺らぎ」がリアルでとても魅力的だったのだ。

 その後、『ヱクリヲvol.9』で何か書こうと思った時に上り調子であるヒプマイについて書こうとして考えたところ、この「呪い」、そしてキャラクターの敵について考えるとコンテンツを画期的に捉えることができると閃き、書き上げることができた。

 だが、それは鎮静剤のようなものに過ぎなかった。前述したように、ヒプマイにも懐疑的な部分があり、更に『ヱクリヲvol.9』が発行された後にコミカライズが始まって、ストーリーとしての「揺らぎ」は作者(シナリオは全て同じ人が担当している)の手によって束ねられていることが明白なものとなった。それまで育んできた解釈を裏切られたファンの反応もなかなか痛快なものではあったが(二次創作でファンが自分のキャラ観を表現し、正当化することができるようになったのも最近のことである)、それにしても「原作」=一次創作であるにも関わらず、キャラクターを寄せ集めてのお祭り作品のようなものとなっている。

 

 

続きは5月末にDVDが届いて気が向いたら

【祝】東大入院

 実は東大病院に入院して手術をしてきました。大学院に入ったわけではないです(笑)。まあありがたくわりかし健康体で生きているためこの「入院」という非日常にツッコミどころが色々とあって、けっこう面白かったのでまとめて残しておこうと思いました。そのため、同じ病気の人が検索して読んで不安をどうこうとかよりも、個人的な感想みたいな面が強いです。まあでもこれ読んだら安心する気はする、不謹慎でも悩むよりいいじゃん。



1.経緯

 子宮内膜症(チョコレート嚢腫)で、腹腔鏡下手術という手術をしました。現代病というか、妊娠できる女性は10%くらいの確率でなるそう。ガチャURより全然確率が高いので、まあそりゃなるわ仕方ないという印象。まあ薬で悪化しないようにする方法もあったのですが、爆発のリスクは変わらずあるので、「リスク負ったままオタ活ができるか!おそるおそる遠征に行くのも嫌だ!」と手術にしました。

 手術と入院のタイミングが悪く推しが出る弓アニメイベントや推しと行く奄美バスツアーに応募すらできなかったという別種の後悔はめちゃくちゃしてますが、今後元気に推しを追うためだと自分に言い聞かせる。来年とかにまたやってください(チケット当たるかどうかは別)。

 

2.入院前

 とはいえ手術予定日は急がないし、先生の予定も埋まっているため、発覚から11ヶ月後になりました。それまでは薬でを飲むくらいで気をつけることは何もなく過ごします。12月には通常の仕事合間の土日に日帰り夜行バス往復で東京から大阪に遠征して帰った日に演劇に行ったり、入院前日もインタビューを取って(批評同人誌『ヱクリヲ』よろしくね)ギリギリまで作業したりと、このような若さゆえの無茶も普通に色々できました。

ecrito.fever.jp

 

 入院前に唯一イラっとしたのは、病院からや保険やなんやの申請と書類記入です。医療費が減額されるやつはただでさえ説明がわかりにくい上に、入院2週間前くらいに郵送しないと手続きがなおさら面倒になるし、保険も先行して書類を取り寄せて、申請にはどんな書類が他に必要なのかを知っておく必要があります。また、保険はテンプレの書類が来るため自分がどのプランで契約しているかも求められる。契約時の書類を引っ張り出してにらめっこする。

 いやこれわたしが元気だからいいけどもそうじゃなければどうするんだ?家族に頼むのか?別居してたりなんやかんやあって頼む家族がいなければどうすればいいんだ?は?と、家族社会を前提にしたこれらの制度に一度嫌気が差します。男「結婚を前提に…」女「(プロポーズきたー!)」男「結婚を前提に設計されたこの社会を一緒に変えませんか?」女「革命のお誘いかーい!」というくだらないコントを思い浮かべつつ、書類を燃やしたい気持ちも抑えつつ、最低限何が必要かを把握し、後でいいものの記入は後回しに。入院当日が割と暇なので記入はそこで片付けました。

 

3.入院

 Wi-Fiがないことを除いては(現代っ子)病室は快適でした。音が出なければソシャゲやLINEなんかもOK。めっちゃA3!とあんスタのストーリーを読む。あと原稿もします。スマホは横になっても消灯しても使えるので、紙の本より便利でよかったです。

 普通は術前の不安とか色々出てくるんでしょうが、執刀の先生がTHE権威という有名な人らしく「まあ寝てれば終わるやろ」という気持ちでした。終わったあとまあ痛かったりするらしいですが、それを不安に思っててもどうしようもないので横に置いておきます。そんな暇があるなら推しのことを考えよう。

 

 入院で一番テンションが上がったのは、初日に主治医や麻酔科やなんやら色んな科の先生が順番に挨拶に来たことです。これは完全に乙女ゲーム原作のアニメの第一話のやつ!!というか女性科で先生がこぞって女性なのでハーレムものですね。みんな無条件にわたしに興味を持って次々と質問を投げかけてきます。情報がきちんと共有されずに本人とのコミュニケーションを重視しているのか、同じことを何回か聞かれたのもリアルでした。わたしの推しは初日の夜勤の看護師の方です(めっちゃ大雑把で肩の力が抜けてて夜勤感があって応援したくなる)。

 

4.手術

 手術は一番手だったので、入口で開場待ちをする。まあ開場=準備即開演なんだけど。入口でIDチェック的なのを受け(ライブだったらすごいセキュリティだ!)、徒歩で一番奥の部屋まで行きました。めっちゃきょろきょろしてドラマみたい!手術室すごい色々わけわからんもんがある!ってしてたらあれよあれよと準備されて意識が落ちる。手術はマジで寝てれば終わった。内視鏡なので切っても縫ってもないそう。

 術後も痛み止めやらちゃんと回復力があったので不自由はあるものも全然つらかったり痛かったりはなかった、ノロの方がよっぽどつらい。それよりあんスタ推しイベ(ストーリーが確実にしんどい)がこの日に予告されていてつらい。イラストのハイライトの位置だけで泣ける作品ってどういうことよ。(このあたりも術後5時間とかで書いてます。)

 

5.術後

 次の日には点滴以外の管は体から外れ、「どんどん歩け」モードに。諸々の管抜くときも少しの違和感くらいでなんなく抜けました。傷は痛むものの、腹筋やらは無事で昼頃には点滴の棒に捕まって歩いていました。ただ手術でおなかにガスを入れられたため、それをいかにうまく抜いていくかを考える必要があります。とりあえず東大特製らしいヨーグルトを飲む。夜には重湯からだけど食事も開始。更に次の日には点滴も取れて一人でシャワーも入れる、ただ傷が疼くだけの人になりました。ちゃんと金曜にカレーが出て感動(#カレーはFriday)。

 めっちゃ腰パンすると傷口に服がすれないことに気付き、ピンクのパジャマを腰パン+ヒョウ柄のパーカーというとても強そうな患者が誕生。ハマのドクロ書いてあるカバン持ち歩いてるしね。こういう真面目なところほどやばい格好したくなるよね。

 手術中はどうやら説明や研究用の写真を撮っていたらしく、執刀医からの説明で内臓の画像をバリバリ見られたのも面白かったです。グロいの耐性があってよかった。私の場合は癒着がひどく、電気メスで細かい病巣を焼いたらしく「焼け野原になってます(が表面だけなので問題ないです)」と言われる。たしかにそうだけど表現(笑)。

 

 結論として、現代医療ってほんとにすごいなと思いました。術後4日で退院して今に至ります。傷の疼きと体力が少し落ちた実感があるくらい。昨日は寿司食べたし、今日は肉食べたし、シャバのメシはおいしいです。一番つらかったのは2.5日間の絶食かもな~。