雑記

140字じゃ書ききれないこと。 (@tkkr_g)

ゲームの批評的分析理論(+実践的分析例として「ゲーム実況」について)

 『ヱクリヲ vol.5』に掲載した「ソーシャルゲームパラドックス」で行ったゲーム分析の具体理論をここで解説する。本誌では趣旨から逸れてしまうため割愛しかつ大雑把な説明だけに留めたが、この分析を経たからこそあの文章を書けたという貢献をしてくれた。その供養の意を込めてここに記しておきたい。

 とはいえ、この理論自体は生きたものであり、これによってこれまでのゲーム批評でよく語られてきた「体験」と、それが様々な質で折り重なって形成される「経験」がどのようなものであるかを読み解くことができるものとなっている。そこには事実/虚構、プレイヤー/キャラクターという対比だけでは語れないゲームの面白さが表出するのだ。

 

ゲームの批評的分析理論

 さて、これまでに様々な人が書いてきたゲーム批評の中で、ゲームの体験の質を考察するものは概して3つの形態をとって存在した。

 ひとつめは東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)で語られている「やり直し、繰り返し可能な物語=ゲーム的リアリズム」という、ゲームらしい物語の「構造」に着目する方法(①)である。これは小説など他のメディアでは1周すれば物語が完結するのに対し、ゲーム(特にここでは美少女ゲーム)は周回プレイをして分岐しているルートを辿りながら補完していくことでひとつの大きな物語が成立するというものだ。

 ふたつめは宇野常弘『ゼロ年代の想像力』(2008、2011文庫版で確認)に書かれている主人公の「表象」で語る方法(②)である。ここでは主人公のアイデンティティが「〇〇であること」=『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジのように戦うために理由が必要で悩むような「引きこもり主義」であるものと、「〇〇をしたこと」=『Fate/stay night』の衛宮士郎のようにある意味肝が据わっていて「生き残るために戦う」ことに迷いがない「決断主義」という2パターンに分類している。

 そしてさやわか『僕たちのゲーム史』(2012)『キャラの思考法』(2016)における主人公の「視点」を巡る方法(③)である。ゲームにおけるカメラの位置は、欧米のゲームに多いFPS的な主人公視点のものと、日本のゲーム特有のTPS的な「主人公の背中が見える」ものがあるという。

 それらはゲームにおける「プレイヤーと主人公(キャラクター)の距離」の問題であり、大雑把にではあるが、ゲームのそれぞれの体験においてキャラクターから見たように描かれているか、プレイヤーから見たように描かれているかの分類であるということだ。この手法によって分析された経験の質はそれぞれ以下のように整理できる。

 3つの考察をこう整理した上で、私は更にもうひとつの項目を加えた(④)。

 

 

①構造

・キャラクター的=1ルートで物語が完結する(例:『ペーパーマリオRPG』)

・プレイヤー的=ゲームの周回要素を考慮に入れる必要がある(例:『Dies irae』)

 

②表象

・キャラクター的=生まれや過去などのプレイヤーと同一化できない部分がアイデンティティ(例:『魔界戦記ディスガイア』)

・プレイヤー的=「ゲーム内でなにをしたか」がアイデンティティ(例:『GRAVITY DAZE』)

 

③視点

・キャラクター的=主人公の視点で進む(例:『囚われのパルマ』)

・プレイヤー的=主人公を画面に映した視点で進む(例:『ロックマンエグゼ』シリーズ)

 

④操作

・キャラクター的=主人公を操作して世界を救う(例:『星のカービィ64』)

・プレイヤー的=主人公は指揮や編成のみ、バトルをするのはまた別のキャラクター(例:『魔法使いと黒猫のウィズ』)



 上から3点は物語やカメラなど、他のメディアでも援用できる要素からゲームを見たものだ。実際に、小説などへ①の想像力が波及している様を「ゲーム的リアリズム」として描いているし、②においては元々アニメやドラマなどで分析した分類をゲームに当てはめており、③は『MAD MAX』などの映画と関連付けられる。もちろんこれら他メディアの想像力に影響されてゲームは作られているが、「ゲーム」批評をするに従い、そこにゲームならではの体験を追加する必要があるのではないかと私は考えた。そのため④を追加した。

 私たちはゲームにおいて、主人公個人や設定されているキャラクター群などから誰かしらを軸にゲームを進めていくからだ。『うたの☆プリンスさまっ♪』であれば名前変更可能なヒロインを、『テイルズオブシンフォニア』であればロイドやクラトスなどのパーティメンバーを操作するように。この2作品では操作キャラクター自らが伴奏を弾き(=音ゲー部分の主体となる)、バトルフィールドに立って攻撃を繰り出すことができる。キャラクター視点であれプレイヤー視点であれ、プレイヤーはゲームの主軸となる部分を主人公を通して体験することができるのだ。しかし『ポケットモンスター』シリーズなどでは、主人公自身は戦わない。プレイヤーは主人公を通してバトルフィールドに立つポケモンに指示を出す。それはバトルそのものを体験する楽しみとは違った体験であると言えないだろうか。ゲームをやる時に、「自分はそこで何ができるか」についても考える必要がある。つまり構造や表象や視点が同じであっても、「操作」についての体験の質は大きく変わってくるのではないか。

 

 「主人公キャラクター」としてなりきってプレイするか、「プレイヤーである」ことを保ったままやるか。それによって、ゲームをして得られる体験の質、つまり経験は変わってくる。それをこの分類によって見ることで、私たちが「そのゲーム」において何を体験し、経験しているのかを解きほぐすことができる。

 例えば、日本産の大作RPG=JRPGは「キャラクター構造/キャラクター表象/プレイヤー視点/キャラクター操作」と分類できとてもキャラクター的な経験を得られる一方で、美少女ゲームはキャラクターとプレイヤー両方を往還していて分類しにくいことが多くその揺らぎが醍醐味であるといった結論が得られる。具体論は『ヱクリヲ vol.5』をぜひ参照していただきたい。

 

実践的分析例として「ゲーム実況」について

 『エクリヲ』ではその分析がソーシャルゲームには通用しない様を描き、そしてその分析を適応させて新たに得られた解釈を披露しているわけだが、本稿ではソーシャルゲームと似たベクトルを持ったゲーム文化である「ゲーム実況」について少し触れたい。

 というのも、ソーシャルゲームは単なるキャラクター/プレイヤー分類では捉えきれず、その「ゲームをプレイする自分を更にプレイする」というメタ的なキャラクター視点を諸々の理由で獲得することで、構造、表象、視点、操作共にキャラクター的な経験を得ることができるものだ。その真逆のメタ的プレイヤー経験である「ゲームをプレイするキャラクターを更にプレイする」ことで、プレイヤー経験を得られるのがまさしくゲーム実況(を見ること)なのである。

 

 ゲーム実況は、ひとつのゲームに対して様々な実況者の動画を見ることができる。特に『マインクラフト』のような制作系、または『スプラトゥーン』のような対戦型のものではコラボ動画などで複数の視点からゲームを見ることができ、視聴者はそれらを補完しながらそのゲームを経験する。そして実況者がどのような人だからこの行動に及んだかといったものは関係なく、その動画(シリーズ)内でどのような(リ)アクションをしたかという「表象」が重要視され、それによって動画につけられるタグが変化していく文化もある。視点においては投稿者の編集によって解説文などのメタ情報が付与されることも多いことに加えてコメントであったり、フルスクリーンで見ない場合には周囲の動画サイトのUIが視界に入ってくる。視聴者にできる操作はキャラクターに指示を出す行為のようにコメントを書き込むことや、キャラクターを乗り換えるように視聴動画を変えることだけである。

 

 そして、特に気になるのはVOLALOIDなどのような音声合成ソフトによる実況文化である。一般的には実況者=ゲームプレイヤーであり、喋りながらゲームをするものであった。しかし、人の声の方が聞きやすいにもかかわらず、ゲーム動画を撮り終わったあとの編集段階で機械による実況を加えたものが多く投稿されているのだ。そこにはもちろん、喋りを後に入れることでゲームプレイに集中できるというメリットもある。加えて、「誰が・どのような人が実況しているか」(=どんな人か・キャラクターとしての主人公の表象)を隠蔽する効果をもたらし、その人のスキルや腕前(=やったこと・プレイヤーとしての主人公の表象)により焦点を当てて見ることができるようになっている。

 ゲームの実況者といえばそのキャラを生かして喋って人気を獲得していく印象があるだろう。しかし、上述したような形式においては結月ゆかりのような既にあるキャラクターに主人公(=実況者)を代替することで、よりプレイヤーとしての側面を強調しながらにゲーム実況を楽しむことができるというパラドックスを抱えていると言える。