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雑記

140字じゃ書ききれないこと。 (@tkkr_g)

FINAL FANTASY Record Keeper ―物語の在り方―

FINAL FANTASY Record Keeperというゲームと物語について。
CMが素晴らしかったのでプレイしてみましたが、私がFFやったことない(正確にはFFCCだけやった)人なので面白くはなかったです(笑)。でもいいゲームだと思って文章を書きました。

 

 

 

魔法と芸術の調和により栄華を誇るとある王国
この王国には代々語り継がれるひとつの言い伝えがあった
偉大なる物語の「記憶」それこそが秩序と安定をもたらす
王国は世界の安寧を守るべく、偉大な物語の「記憶」を「絵画」に封印した
ビッグブリッヂの死闘」「大空洞」「ザナルカンド」・・・・・・戦士たちの数々戦いの記憶
王国の<歴史省>はその「記憶」を大切に管理していた
しかし・・・・・・

―「FINAL FANTASY Record Keeper」あらすじより


 舞台は物語の記憶が王国を安定させている世界だ。そして、その記憶が封印されている絵画が黒く染まっていくところからゲームの物語は始まり、王国の空は不気味なものへと変化していく。そこで、歴史省に所属している主人公として絵画の記憶をひとつひとつ辿りながら絵画を元に戻し、王国に平和を取り戻すことが目的である。ここで私が気になったことは、
1.「歴史」=「物語」であること
2.「記録」ではなく「記憶」であること
3.「世界」ではなく「国」単位であること
4.「物語」の「記憶」を失うとヤバイこと
5.記憶方法が絵画であること
である。それらをひとつひとつ解釈しながら、物語は私たちに何をもたらすのかを考える。

 1.「歴史」=「物語」であること。
 物語を管理しているのは歴史省であることからこの等式は導き出せる(別に<物語省>でもよかったのだ)。私たちは「物語」と聞くと、どこか自分とは関係ないところで(現実だけではなくフィクションも含めて)起きた出来事を語ることだと思ってしまう。一方の「歴史」は、過去に起こったことの事実として私たちに刷り込まれているものだ。つまり、「歴史」は出来事そのものであるが、「物語」には出来事を語る作者と読者が入り込む。物語に入り込む作者性と読者性は、その作者の考え方や語り口、読者の解釈や経験などによって出来事にノイズ的な不可要素がどうしても入り込んでしまうのだ。だが、一方の「歴史」はほんとうに出来事そのものなのだろうか。例えば、従軍慰安婦問題を巡って「あった」「あったが同意の元だ」「同意もあったが強制もあった」などの議論が行われている(その是非は今は問わない)。そしてその解釈の分岐点は、どの「歴史」書(記録文書)や証言を参考にしてどのように解釈するかの違いであるところが大きい。その歴史書には作者が存在するし、証言者はその記憶を参照しながら発言するため過去の美化・醜化や記憶違いなどある種の作者性が入り込む。そしてそのできごとを体験していない、それを参照する読者もいる。つまり、歴史も作者読者の存在する物語的なものなのだ。
 そう考えると、私たちが信じていた「歴史」の不安定さが露呈してくる。

 2.「記録」ではなく「記憶」であること。
 これは?と似ている。記録は出来事そのものを書き記したものであり、「歴史」という語と共に使われることも多い。しかし、「歴史を記憶する」という言説の違和感からもわかるように、記憶には美化や醜化が含まれ、人の記憶力に限界がある不確実で儚いものだ。違いはそれだけでなく、記録は紙などに書き込まれてそれを見なければ意味のないものであるが、記憶は一人一人の頭の中にあるものである。偉大な物語を記憶していること、それは各々が物語を自分のものとして内化していることだ。

 3.「世界」ではなく「国」単位であること。
 RPGなどでよくあるのは、「世界崩壊を止めるために主人公が戦う」話である。FFRKも別に「この世界には代々語り継がれるひとつの言い伝えがあった」と始まってもなんの違和感もない(むしろ「王国」と言われたほうがどこか変な感じである)。しかし、現実に国民性が地理的に近い同じ母国語圏(メディアの届く範囲)で形成されていくように、歴史も言葉を媒介にして形成される。「語り継がれる」と書いているのもわかりやすいだろう。歴史が問題にされている以上、国を舞台に設定されているのは「さすがFFだなあ~」といった感想だ。つまり、他の国では語り継がれている歴史が違う可能性も大いにある。そのような現代社会も持っている問題を示唆している。

 4.「物語」の「記憶」を失うとヤバイこと。
 具体的にどうなるのかはわからないが、国の秩序や安定が乱れるようだ。私たちの社会では「物語」を失うことは健全な青年の育成に繋がると思われている部分もある。例えば「暴力表現はそれを見た子供を暴力的にする」といった言説があるが、そのような戦う物語を失った世界を想像して欲しい。そういうような「これがあったら/なかったら」という想像力を助けてくれるのも物語である。アニメ「PSYCHO-PASS」では、人の精神の不安定性がシビュラシステムという装置で監視されているシステムが当たり前になった世界が舞台である。精神の不安定性が一定値に達すると牢屋のような隔離部屋に連行され、普通の生活を失うことになる。つまり「こいつがムカつくから殺したい」と思うだけで捕まってしまうのだ。そんな世の中で、シビュラシステムの監視を通り抜けるヘルメットを使ったレイプ殺人が白昼堂々街中で起こる。そんな時、周りの人々はシビュラを信用しきっているので、シビュラシステムが反応しないことに対して「これが犯罪である」という認識ができずにただ傍観しているのだ。もし、戦う物語が存在しない世界になったら、いざという時に大切なものを守るための戦いすらできなくなってしまうかもしれない。それは?で述べた「物語を内化」できていないことにも繋がる。物語の可能性に対する規制は、私たちの想像力すら規制してしまい、危機にうまく立ち回れなくなってしまうだろう。もし、政治家の権力が暴走した時にその想像力がなかったら―国の秩序や安定は簡単に乱れてしまう。

 5.記憶方法が絵画であること。
 絵画も?や?のようにとても不安定なメディアである。写真や動画などのメディアがない世界だからかもしれないが、現実の像としてではなく、誰かの創作として記憶は保存されるのだ。さらに、一瞬を切り取る写真とは対照的に、絵画は下地があったり絵の具を重ね塗りしたりするので、時間の層が折り重なっている。ただ表面だけで何があったかを記述するのならば絵画である必要はない。その奥にある背景や絵画を支える基盤が描かれている物語をより深くするのだ。
 また、文章との比較を考える。文字ではなく像として物語を記憶しているのは、人間が文字で記述されたものは私たちの生きる世界を映し出したものと認識しにくいからではないか。私たちの世界は私たちの五感を媒介として構成されていて、その中でも特に頼られているのは視覚情報である。視覚情報の中で、文字はその構成要素の一部分にしかすぎない。私たちの見る世界は文字だけで成立している訳ではない。ほとんどがものの像で成立している。例えば私が見ているパソコンも私の目を通して現れたパソコンの像である。像で物語を描くということは、ダイレクトに私たちの世界と物語の繋がりを感じることができるのだ。文字で描かれることの多い歴史よりも、絵などで描かれることの多い物語の方が、私たちの心に響きやすい構造なのだ。


 物語とは歴史である。そういってしまうのは極論かもしれない。しかし、現代の私たちは歴史よりも物語の方が身近に感じ、物語から教訓を得て生きている。そこには文化的に大切な役割をきちんと持ち、社会になければいけない理由がある。もちろん、歴史も大切なものである。理論的には歴史>物語が社会には大切だとみんな考えているだろう。しかし実際には、物語が社会を支えているような歴史<物語という構造になっていることを見落としていないだろうか。それに目を向けず、単に物語を規制するような流れは、社会の崩壊を招く。だからこそ私たちひとりひとりが物語を守るもの(=Record Keeper)となって、ゲームの主人公のように物語を守っていく必要があるのだ。