雑記

140字じゃ書ききれないこと。 (@tkkr_g)

FINAL FANTASY Record Keeper ―物語の在り方―

FINAL FANTASY Record Keeperというゲームと物語について。
CMが素晴らしかったのでプレイしてみましたが、私がFFやったことない(正確にはFFCCだけやった)人なので面白くはなかったです(笑)。でもいいゲームだと思って文章を書きました。

 

 

 

魔法と芸術の調和により栄華を誇るとある王国
この王国には代々語り継がれるひとつの言い伝えがあった
偉大なる物語の「記憶」それこそが秩序と安定をもたらす
王国は世界の安寧を守るべく、偉大な物語の「記憶」を「絵画」に封印した
ビッグブリッヂの死闘」「大空洞」「ザナルカンド」・・・・・・戦士たちの数々戦いの記憶
王国の<歴史省>はその「記憶」を大切に管理していた
しかし・・・・・・

―「FINAL FANTASY Record Keeper」あらすじより


 舞台は物語の記憶が王国を安定させている世界だ。そして、その記憶が封印されている絵画が黒く染まっていくところからゲームの物語は始まり、王国の空は不気味なものへと変化していく。そこで、歴史省に所属している主人公として絵画の記憶をひとつひとつ辿りながら絵画を元に戻し、王国に平和を取り戻すことが目的である。ここで私が気になったことは、
1.「歴史」=「物語」であること
2.「記録」ではなく「記憶」であること
3.「世界」ではなく「国」単位であること
4.「物語」の「記憶」を失うとヤバイこと
5.記憶方法が絵画であること
である。それらをひとつひとつ解釈しながら、物語は私たちに何をもたらすのかを考える。

 1.「歴史」=「物語」であること。
 物語を管理しているのは歴史省であることからこの等式は導き出せる(別に<物語省>でもよかったのだ)。私たちは「物語」と聞くと、どこか自分とは関係ないところで(現実だけではなくフィクションも含めて)起きた出来事を語ることだと思ってしまう。一方の「歴史」は、過去に起こったことの事実として私たちに刷り込まれているものだ。つまり、「歴史」は出来事そのものであるが、「物語」には出来事を語る作者と読者が入り込む。物語に入り込む作者性と読者性は、その作者の考え方や語り口、読者の解釈や経験などによって出来事にノイズ的な不可要素がどうしても入り込んでしまうのだ。だが、一方の「歴史」はほんとうに出来事そのものなのだろうか。例えば、従軍慰安婦問題を巡って「あった」「あったが同意の元だ」「同意もあったが強制もあった」などの議論が行われている(その是非は今は問わない)。そしてその解釈の分岐点は、どの「歴史」書(記録文書)や証言を参考にしてどのように解釈するかの違いであるところが大きい。その歴史書には作者が存在するし、証言者はその記憶を参照しながら発言するため過去の美化・醜化や記憶違いなどある種の作者性が入り込む。そしてそのできごとを体験していない、それを参照する読者もいる。つまり、歴史も作者読者の存在する物語的なものなのだ。
 そう考えると、私たちが信じていた「歴史」の不安定さが露呈してくる。

 2.「記録」ではなく「記憶」であること。
 これは?と似ている。記録は出来事そのものを書き記したものであり、「歴史」という語と共に使われることも多い。しかし、「歴史を記憶する」という言説の違和感からもわかるように、記憶には美化や醜化が含まれ、人の記憶力に限界がある不確実で儚いものだ。違いはそれだけでなく、記録は紙などに書き込まれてそれを見なければ意味のないものであるが、記憶は一人一人の頭の中にあるものである。偉大な物語を記憶していること、それは各々が物語を自分のものとして内化していることだ。

 3.「世界」ではなく「国」単位であること。
 RPGなどでよくあるのは、「世界崩壊を止めるために主人公が戦う」話である。FFRKも別に「この世界には代々語り継がれるひとつの言い伝えがあった」と始まってもなんの違和感もない(むしろ「王国」と言われたほうがどこか変な感じである)。しかし、現実に国民性が地理的に近い同じ母国語圏(メディアの届く範囲)で形成されていくように、歴史も言葉を媒介にして形成される。「語り継がれる」と書いているのもわかりやすいだろう。歴史が問題にされている以上、国を舞台に設定されているのは「さすがFFだなあ~」といった感想だ。つまり、他の国では語り継がれている歴史が違う可能性も大いにある。そのような現代社会も持っている問題を示唆している。

 4.「物語」の「記憶」を失うとヤバイこと。
 具体的にどうなるのかはわからないが、国の秩序や安定が乱れるようだ。私たちの社会では「物語」を失うことは健全な青年の育成に繋がると思われている部分もある。例えば「暴力表現はそれを見た子供を暴力的にする」といった言説があるが、そのような戦う物語を失った世界を想像して欲しい。そういうような「これがあったら/なかったら」という想像力を助けてくれるのも物語である。アニメ「PSYCHO-PASS」では、人の精神の不安定性がシビュラシステムという装置で監視されているシステムが当たり前になった世界が舞台である。精神の不安定性が一定値に達すると牢屋のような隔離部屋に連行され、普通の生活を失うことになる。つまり「こいつがムカつくから殺したい」と思うだけで捕まってしまうのだ。そんな世の中で、シビュラシステムの監視を通り抜けるヘルメットを使ったレイプ殺人が白昼堂々街中で起こる。そんな時、周りの人々はシビュラを信用しきっているので、シビュラシステムが反応しないことに対して「これが犯罪である」という認識ができずにただ傍観しているのだ。もし、戦う物語が存在しない世界になったら、いざという時に大切なものを守るための戦いすらできなくなってしまうかもしれない。それは?で述べた「物語を内化」できていないことにも繋がる。物語の可能性に対する規制は、私たちの想像力すら規制してしまい、危機にうまく立ち回れなくなってしまうだろう。もし、政治家の権力が暴走した時にその想像力がなかったら―国の秩序や安定は簡単に乱れてしまう。

 5.記憶方法が絵画であること。
 絵画も?や?のようにとても不安定なメディアである。写真や動画などのメディアがない世界だからかもしれないが、現実の像としてではなく、誰かの創作として記憶は保存されるのだ。さらに、一瞬を切り取る写真とは対照的に、絵画は下地があったり絵の具を重ね塗りしたりするので、時間の層が折り重なっている。ただ表面だけで何があったかを記述するのならば絵画である必要はない。その奥にある背景や絵画を支える基盤が描かれている物語をより深くするのだ。
 また、文章との比較を考える。文字ではなく像として物語を記憶しているのは、人間が文字で記述されたものは私たちの生きる世界を映し出したものと認識しにくいからではないか。私たちの世界は私たちの五感を媒介として構成されていて、その中でも特に頼られているのは視覚情報である。視覚情報の中で、文字はその構成要素の一部分にしかすぎない。私たちの見る世界は文字だけで成立している訳ではない。ほとんどがものの像で成立している。例えば私が見ているパソコンも私の目を通して現れたパソコンの像である。像で物語を描くということは、ダイレクトに私たちの世界と物語の繋がりを感じることができるのだ。文字で描かれることの多い歴史よりも、絵などで描かれることの多い物語の方が、私たちの心に響きやすい構造なのだ。


 物語とは歴史である。そういってしまうのは極論かもしれない。しかし、現代の私たちは歴史よりも物語の方が身近に感じ、物語から教訓を得て生きている。そこには文化的に大切な役割をきちんと持ち、社会になければいけない理由がある。もちろん、歴史も大切なものである。理論的には歴史>物語が社会には大切だとみんな考えているだろう。しかし実際には、物語が社会を支えているような歴史<物語という構造になっていることを見落としていないだろうか。それに目を向けず、単に物語を規制するような流れは、社会の崩壊を招く。だからこそ私たちひとりひとりが物語を守るもの(=Record Keeper)となって、ゲームの主人公のように物語を守っていく必要があるのだ。

光の音色-THE BACK HORN Film- 初見

・「旅」
映画に出てくる死体は2種類、主人公の妻と、兵士・パルチザンたちである。兵士・パルチザンの死体は何者かに「足」を切断される。足のない身体はもう旅に出られない。一方で主人公の妻は足があり、夫が足となって共に旅に出る。その旅は「何処へゆく」かわからない、死に場所を探す旅(リアカーのパート)・死後の旅(妻と海辺へ歩くパート)である。兵士たちは死に場所を選べず死後も何処にも行けないが、主人公と妻は「旅」に出ることができる自由さを持っている。

・「植物」
度々いわゆる冬の状態の植物が描かれる。 花が終わってからの次の始まりまでのモラトリアムの状態であるとも言える。 たとえば葉の付いていない木、花の咲いていない草、道のわきの茶色い草...。それらは妻が死んだ後の主人公の側にある。一方、「生きている」状態の植物はそのままでは出てこないが、妻が生きていた頃のビンが付いている木がこれにあたるだろう。主人公が妻を埋めようとした後の川で出てくる不気味にゆらぐ大きな木は、主人公がそのモラトリアムの中にいることを暗示しているようだった。

・「白シャツの将司」
最近は普通のライブでは黒シャツを着ているボーカルの山田将司。白シャツはマニヘブのような区切りの時に着る正装のようなものだ。映画という主戦場と別の場所へのリスペクトなのかもしれない。
更に印象的なのはスクリーンを使った演出の時にシャツにも映像が映ることだ。彼は時に背景と同化し、時に背景から浮かび上がる。それはTHE BACK HORN自身の主観と客観が行き来したり、普遍的で主観にも客観にも当てはまるような歌詞、そしてこの映画そのもののロシアでの映像と溶け込むTHE BACK HORNの音楽と、ライブ映像として浮かび上がる音楽という構図を体現するかのようであった。そういった諸々の二項対立を越える媒介としての山田将司がそこにはいた。

・「アンコール」
ロシアでのストーリーは「何処へゆく」で終わり、ストーリーを不随しない「コバルトブルー」とエンディングテーマとしての「シンフォニア」で幕を下ろす。「コバルトブルー」という〈俺達〉の曲を介入させることは、このストーリーと鑑賞者(俺達)を繋ぐ役割を果たす。「シンフォニア」という〈始まり〉の歌を終わりに置くことは、主人公の生命が終わった後に妻との旅の始まりがあったように、映画の終わりを私たちの始まりに繋ぐ役割を果たす。
その2曲の映画と現実を繋げる役割はカメラワークにも表れている。「コバルトブルー」は端に少しカメラが見切れていて、「シンフォニア」ではだんだんカメラ・カメラマンが映り込んでくる。そうすることで少しずつ私たちがこの映画を他人事としてではなくかなりリアルに受けとることができる。

・「犬」
一番良い演技してたかもしれない。もふもふ。

・「傘」
主人公は自分が濡れるのをいとわず、パラソルを妻の上にさす。「SUMMER NUDE」でもあったように、傘は思いやり・優しさの表象として使われている。

・「劇半/BGM/主題」
この境界は1曲の中でも移り変わって面白かった。

・「映画として」
今の映画のストーリー性と、映画発明直後の穏やかさが良い感じに混ざってた。ハイブリッド。

・「他」
シーンの移り変わりの時に左からスーッて変わったり、ブラック画面が挿入されていた。あまり他の映画でない切り替わりだと思うが、何故そうなったのか。
それぞれのシーンが写真のよう(by.母親)。
ライブからストーリーに戻る時の音の切れ方が中途半端だったところがある。もっと余韻を大切にしてほしかった...。

 

 

[追記]

tkkrgr.hateblo.jp

 

 

光の言説-THE BACK HORN Lyrics-

映画公開に先立って「光」というキーワードからTHE BACK HORNの歌詞世界について考えてみたもの。
文章は荒いですが、THE BACK HORNへの愛が伝わるといいなと思います。人によって解釈が違う部分もあると思うので、違うと思ったらそれも言語化しておくとTHE BACK HORNも嬉しいかなと思います。

 

 

 もうすぐ「光の音色-THE BACK HORN Film-」という映画が公開される。これはバンド映画にありがちなライブなどのドキュメンタリー作品ではなく、THE BACK HORN(以下、バックホーン)のこれまでの曲を元に編成されてロシアで撮影された映画である。内容に関しては映画を観るのを楽しみにしておくとして、映画の公開記念に私は結成から現在に至るまでのバックホーンの「光」に対する意識を歌詞の面から読み取っていこうと思う。光と一言に言ってもその内実は多様である。そこで歌詞の中の光的な言葉・反義語である闇的な言葉のを抽出し、その描かれ方はどう変わっているのか、または変わっていないのか、アルバムごとに検証していく。

 ①インディーズ1st「甦る陽」
〈<u>星影</u>〉〈<u>闇</u>知らぬ者は<u>光</u>もしかり〉〈命の<u>灯</u> 青白く燃やせ〉(「サーカス」)
〈燃え上がる<u>太陽</u>に背を向けたまま〉(「新世界」)
〈強く <u>光</u>が包み込む 目も眩むほどに〉(「ひとり言」)
 ②インディーズ2nd「何処へ行く」
〈巡り巡る<u>太陽</u> 昇るのを待っている まだ生きているかと〉(「ピンクソーダ」)
〈煙立ち籠めて青白く<u>光る</u>〉(「怪しき雲ゆき」)
〈明日は<u>光り輝く</u>〉(「晩秋」)
〈むせかえる息もできぬほどに <u>夕闇</u>立ち籠める〉(「何処へ行く」)
 この2作品は共通して、光は闇と表裏一体であったり、自分が光をどこか拒絶していたりする。どこか諦めた印象。あまり光はいいものではないようだ。しかし生きること・明日(へ命を繋ぐこと)もまた光であり、それが生きる意味であるというようなことを表している。 

 ③メジャー1st「人間プログラム」
モノクロームの世界に <u>朝日</u>はもう昇らない〉(「幾千光年の孤独」)
〈パンクス 物理学者を 静脈に うてば <u>闇</u>のひだを震わせ 僕の心臓は 唄を歌う〉〈月影のワルツ〉(「セレナーデ」)
〈<u>コーヒー色した闇</u>が 空をつまらなくしてる〉〈<u>闇と光</u>の尾を引いて 明日へと 行こう〉(「サニー」)
〈揺れる<u>裸電球</u> 身の内を映し出した〉(「水槽」)
〈<u>光</u>の中行くのなら 心には<u>三日月</u>を〉〈<u>闇</u>の荒野行くのなら 心には<u>太陽</u>を〉〈そして続くのだ 今日が又そう <u>赤き陽</u>の下で〉(「ひょうひょうと」)
〈目覚めると俺は <u>夜</u>の底まで 落ちていたよ <u>真っ暗</u>な部屋の中 にじむ<u>明かり</u>は 浮世の夢〉〈街の<u>灯</u>が咲いた 帰り道には 迷子たちの<u>影法師</u> 焼け付いて〉(「空、星、海の夜」)
〈<u>オレンジの景色</u>の中 置いてゆくのは何もない 涙も連れてゆけばいい〉(「夕焼けマーチ」)
 この作品でも光と闇は表裏一体である。しかし、それのどちらを選ぶわけでもなく、一緒に連れて行こうとしている点が変わっている。前作では光に背を向けている部分もあり、どちらかというと闇を選んでいたのかもしれない。そして普通は進歩して光を選ぶところであるが、両方を受け入れるという予想外の選択をする。

 ④メジャー2nd「心臓オーケストラ」
〈<u>光</u>射すあなたが<u>照らす</u>道標〉(「ワタボウシ」)
〈<u>影</u>踏み帰る 子供の声や <u>夕焼けに</u>世界が まだ少しだけ続くと思えたよ〉(「夏草の揺れる丘」)
〈電車に乗る真昼頃 <u>橙と青</u>が交わって 天国を作る時間がある 俺たちだけの秘密だった〉(「夕暮れ」)
〈咲け 野生の<u>太陽</u> 暴けよ<u>闇夜</u>を 俺は生きている〉(「野生の太陽」)
〈人を愛する気持ちを知った<u>月の夜</u>〉(「世界樹の下で」)
 相変わらず光と闇が同居している空間が描かれている。しかし、そこには「あなた」や「愛」といった他者がついてくるようになった。光と闇を両方受け入れた先にあるのは、誰かと一緒に生きるという希望・ほんとうに人を愛することではないか。

 ⑤メジャー3rd「イキルサイノウ」
〈乱反射する<u>キラメキ</u>の中へ〉〈躓きながら <u>光</u>の結晶へ 何度でも手を伸ばす俺たち〉(「光の結晶」)
〈<u>暗闇</u>の中 ドアを叩き続けろ〉(「孤独な戦場」)
〈午後の<u>光</u>が眩しくて 見上げた空に溜め息一つ〉(「花びら」)
〈おお こんなにも恥ずかしい姿は もう<u>闇夜</u>のせいなんかじゃない〉(「プラトニックファズ」)
〈素晴らしい明日が広がっていく<u>夜明け</u>〉(「生命線」)
〈想いがいつかは<u>夜空</u>を越えて あなたの元へと届く気がする〉(「羽~夜空を越えて~」)
〈水面に咲く<u>満月</u>の「凛」よ〉〈蒼く燃える熱情だけが 道を<u>照らし</u>てゆく〉(「赤眼の路上」)
〈ただいま、おかえり、遠くに、家の、<u>灯り</u>。〉(「ジョーカー」)
 「心臓オーケストラ」で見えた光とあなたの描写に少し具体性が加わったように思う。その光は雨上がりの水たまりであったり(「光の結晶」)午後の光であったり、普段は見落としているけどふとした時に気づく小さな身近な幸せである。

 ⑥メジャー4th「ヘッドフォンチルドレン」
〈喜びで見失っていく<u>影</u>〉〈<u>月の光</u> 永遠の輪廻〉〈裸のまま解き放つ声に <u>闇</u>を包みこむ力がある〉(「扉」)
〈この<u>夜が明ける</u>頃 俺たちは風になる〉〈<u>闇</u>の沈黙に十六夜の月〉〈この<u>夜が明ける</u>まで 酒を飲み笑い合う〉(「コバルトブルー」)
〈雨上がり<u>朝日</u>に未来を重ねたら 見えたような気がした <u>光</u>の中で〉(「夢の花」)
〈太陽に手を伸ばしてる〉〈燃え尽きていく惑星に ちっぽけな影を伸ばして〉〈月光に手を伸ばしてる〉(「旅人」)
〈あなたがこぼした涙 冬の<u>日射し</u>の中で輝いてずっと見惚れていたんだ〉〈今はまだ小さな<u>ヒカリ</u>でいい〉〈<u>日射し</u>の中で〉(「キズナソング」)
〈<u>輝く</u>未来はこの手で開いてゆける <u>きらめく</u>世界で溢れ出す命が奏でるストーリー〉(「奇跡」)
 かなり明るくポジティブなイメージで光へと向かうようになった。もう下を向いて、諦めて闇を背負うのではなく、前を向いて光へと進んでいる。すると、朝日や日射しといった日常の世界がきらめいて見えてくる。

 

 ⑦メジャー5th「太陽の中の生活」
〈<u>太陽</u>に殺されそうな日も細胞は生まれ変わってゆく〉〈果てしないあの電脳の<u>闇</u>を切り裂けカオスダイバー〉(「カオスダイバー」)
〈鼓動が響いた<u>夕闇</u>の中震える君は弱い陽炎〉(「アポトーシス」)
〈証明 ここに生きている証を<u>照らせ</u> <u>輝く</u>栄光をこの手で勝ち取れ〉〈亡霊 青い<u>影</u>を引きずって踊る〉〈<u>夜</u>が全て狂わせてしまうけれど 生命の絵の具で<u>闇夜</u>を切り裂け〉(「証明」)
〈東の空に<u>光</u>が咲けば いつもと同じ景色が来る〉〈願いは強く 宇宙の果てに届け <u>闇</u>を越えて〉〈息を切らして走った 何もかもを<u>照らして</u>〉(「ホワイトノイズ」)
〈時には何もかも<u>陽射し</u>のせいにして〉〈考え込む<u>夜</u>が下着を脱いだなら 全てがバカらしくなる〉〈いつか<u>赤く光る月</u>をつかみたくて〉(「世界の果てで」)
ブラックホール <u>闇</u>のバースデイ <u>黒い太陽</u> 蜷局を巻く〉〈どうか衝動よ あの子の<u>暗闇</u>を突き破れ〉〈大丈夫 今夜何もかもが<u>輝いて</u>〉(「ブラックホールバースデイ」)
〈浮いて沈む<u>光と影</u>〉(「浮世の波」)
〈<u>闇</u>を抱いて 日々を越えて〉(「初めての呼吸で」)
  光についてはあまり変わっていないが、このアルバムから「闇を切り裂く」といった表現が出てくる。前作でポジティブになった結果、光を求めるために闇は倒してしまおうというスタンスになったのだ。初期の闇と光の同居状態もまだ残ってはいるが、ベクトルとしては光への意志が感じられる。他のアルバムよりも光と闇の表現が多いことから、二項対立的な考えを導入した結果であるのかもしれない。

 ⑧メジャー6th「THE BACK HORN
〈<u>夕闇</u>の中で一人ぼっち〉〈<u>燃える光</u> ぎらりぎらり〉(「ハロー」)
〈世界で一番悲しい答えと 悲しくなれない<u>真っ黒い影</u>〉(「美しい名前」)
〈そして俺たちは飲み込まれていく <u>どす黒い穴</u>の向こう側へ〉(「舞姫」)
〈<u>夕闇</u> 日常を彩ってく〉(「フリージア」
〈<u>闇夜</u>切り裂いて照らし出す〉〈<u>光</u>の中で君が笑う〉(「虹の彼方へ」)
〈世界が<u>輝く</u>くらいに 夢を見れるから〉(「シアター」)
〈消えてゆく<u>灯り</u>〉〈まだ眠れずに窓に射した<u>朝日</u>さえ 漠然と続く今日も夢のまた夢〉(「負うべき傷」)
〈<u>光</u>の中で燃えていた景色が過ぎる〉(「声」)
〈反射する <u>白銀の光</u>に まぶた閉じれば〉〈そして遠く<u>光る</u>あの場所へ飛び立って〉(「理想」)
〈<u>太陽</u>が昇り罪と罰を<u>照らす</u>〉(「枝」)
 バンド名をタイトルにしただけあり、今までの歩みの確認なのだろうか。バランスよく今までの光・闇の描き方が入っているように感じる。

 ⑨メジャー7th「パルス」
〈孤独を暴く<u>光</u> その最前線をゆけ〉〈<u>闇</u>の中で首根っこを掴んだ〉〈暮れゆく<u>橙の逆光</u>を切り裂いてく〉(「世界を撃て」)
〈入り混じる<u>曳光</u>に身を伏せたまま〉〈誰のため何のため嘲笑う<u>月</u>〉(「フロイデ」)
〈黒い翼広げ 羽ばたくカラスが<u>夜</u>を告げる 赤い<u>テールライト</u> 流れる景色が滲んでゆく〉〈世界が目覚める あの<u>夜明けに</u>手を伸ばすよ〉〈独りじゃないなら<u>闇</u>の中を走り出せる〉(「覚醒」)
〈繋がることはないよ 匿名希望の<u>影</u> どこまでも憑いてくる〉(「さざめくハイウェイ」)
〈<u>朝日の射す</u>公園 零れる希望に 眩んだこの目閉じて <u>明かりのない</u>世界を夢中で駆け回った〉〈いつまでもその<u>灯</u>を守り続けて〉〈どこにいても笑えないことばかりだよ だけど<u>太陽</u>は昇るのさ〉(「鏡」)
〈眩しすぎる<u>太陽</u>さえ奪えずに〉〈<u>夜</u>が来なければ誰が愛を語るだろう <u>夜</u>が恋しくて俺は目を潰すだろう〉(「白夜」)
〈<u>星</u>よ <u>月</u>の雫よ 誰の道を<u>照らす</u>のだろう〉〈夢中で追いかけた微かなその<u>光</u>〉〈張り裂ける<u>夜</u>の中を俺たちは走り出す〉〈飲まれてしまいそうな<u>闇</u>の中で〉(「蛍」)
〈<u>夜</u>に滲む罪の跡〉〈<u>夜</u>に垂れる蜘蛛の糸〉〈叫ぶ欲望さえも 消える<u>静寂の闇</u>〉〈遠く地平の彼方 照らす<u>太陽</u>の下〉(「グラディエーター」)
〈<u>暗闇</u>を<u>照らす</u> <u>照らし</u>出す<u>光</u>〉〈穏やかな<u>日溜まり</u>の中で〉(「生まれゆく光」)
 2曲以外、光と闇に関する語彙が使われている。それだけ光と闇はこのアルバムにとって大切なモチーフなのだろう。そして、このアルバムでは闇を切り裂く訳ではないが、闇から抜け出して強い光への意志が感じられる。

 ⑩メジャー8th「アサイラム
〈脳内麻薬火をつけて<u>太陽</u>の道走り出せ〉(「雷電」)
〈2000年は一瞬の<u>閃光</u>〉(「ラフレシア」)
〈紺碧の空に<u>三日月</u>滲んで消えた〉〈ありのまま何もかも<u>輝く</u>だろう 今はまだ<u>闇</u>に震えていても 笑い合える日が来る〉〈いつかは君に幸あれ <u>光</u>の中で〉〈水たまり<u>反射する</u>飛沫あげて〉〈強く強く叫ぶように<u>夜明け</u>は降り注いだ〉(「戦う君よ」)
〈広がる大地に生まれた<u>太陽</u>が 限りなき生命を等しく<u>照らした</u>〉〈愛しき<u>灯</u>〉(「再生」)
〈<u>輝く星空</u>よ 全てを受け止めて〉〈瞬間の<u>輝き</u>は永遠の始まりさ〉〈<u>光</u>は突き抜けて〉(「羽衣」)
〈<u>光</u>は滑走路〉〈<u>春の陽</u>に手を伸ばし〉「海岸線」)
〈この<u>闇</u>を突き抜けて〉(「ペルソナ」)
〈野生の本能よ 今 叫べ <u>闇</u>の中で〉〈救われない孤独に<u>光</u>を〉〈そして世界は<u>輝く</u>〉〈<u>太陽</u>が熱く熱く<u>照らしている</u>〉(「太陽の仕業」)
〈二度と帰れない<u>闇</u>の彼方へ〉〈羽撃き続ける<u>微かな光</u>へと〉(「閉ざされた世界」)
〈この真っ白な<u>朝焼け</u>が映してる〉(「汚れなき涙」)
〈黒さを増してく<u>影</u>〉〈<u>光</u>をこの目で掴まえた俺が生まれた日〉〈未来を<u>光</u>を掴まえに掴まえにゆこう〉(「パレード」)
 このアルバムも全曲に光と闇の語彙が入っている。そして光を目指すにあたって、〈照らす〉というような拡散する光のイメージだけではなく、〈道〉〈滑走路〉といった直線的な・視覚的な光のイメージも使われている。目的としての光に一直線に向かっていくような意識である。


 ⑪メジャー9th「リヴスコール
〈あるのは生身の生命が<u>灯す光</u>だ〉(「シリウス」)
〈走馬灯のように<u>光る星</u>〉〈途切れ途切れのSOSが溢れそうで<u>光</u>に目を細めた〉〈<u>光</u>の中で今〉(「シンフォニア」)
〈<u>光</u>の指す方へ〉(「グレイゾーン」)
〈<u>橙の電灯</u>が遠くなってゆく〉〈いつものドアの向こうには 穏やかな<u>陽だまり</u>が揺れるだけ〉(「いつものドアを」)
〈まぶたを閉じる <u>陽だまり</u>の中〉〈手をかざして差し込む<u>光</u>〉〈<u>光</u>の先へ〉(「風の詩」)
〈宇宙で一番の<u>明かり</u>探すよ〉〈遠く誰か呼ぶ声がする <u>暗闇</u>で〉〈そっと傷口を優しく<u>照らすよ</u>〉(「星降る夜のビート」)
〈時を越えた<u>光</u>にあやかって〉(「超常現象」)
〈寝ぼけ眼に写った荒れ狂う<u>闇</u>の壁〉(「反撃の世代」)
〈触れない<u>光</u>に伸ばす指先〉(「自由」)
〈<u>光</u>や笑顔や喜びに隠されてしまうその前に〉〈朝と昼と夜と<u>光</u>と<u>影</u>と僕とその間で奏でている〉(「世界中に花束を」)
〈<u>夜が明け</u>それぞれの<u>朝</u>が始まてゆく〉(「ミュージック」)
 前2作の強い「光」への目的意識、それが東日本大震災を経た「リヴスコール」では〈光の指す方〉〈光りの先へ〉と、「光」そのものではない漠然とした何処かへ向かおうとしているのが印象的だ。更に、漠然としているにも関わらず、〈電光石火で〉〈駆け抜けて〉〈走り抜けて〉いくのだ。そして、よく見えなくなっているからこそ「闇」という表現も2回しかなく、光の表現に偏っている。

 ⑫メジャー10th「暁のファンファーレ」
〈旅をはじめよう 風さえ寝静まった<u>夜</u>に〉〈Stand by me in the <u>moonlight</u>〉〈道を<u>照らせよ月光</u>〉(「月光」)
〈何度でも<u>光</u>を求め〉〈有頂天 無条件 <u>闇</u>の中で〉(「シェイク」)
〈今!迫り来る<u>闇</u>の奴隷にはなるなよ〉(「バトルイマ」)
〈<u>闇</u>の中で〉(「エンドレスイマジン」)
〈日差しが目に突き刺さって〉〈やがて闇に黒く黒く染められて躍る星の下〉〈揺光〉(「幻日」)
〈長く伸びた影落とし〉〈淡き青春の光 路を<u>灯す</u>〉〈今 黄昏踏みしめ <u>光の影</u>指す方へ〉(「タソカゲ」)
〈水面に瞬き揺れて<u>光</u>れ〉〈<u>光</u>の絵筆重ねて〉〈胸の奥へ届く<u>光</u>〉(「シンメトリー」)
〈<u>暗い</u> 高架橋の上〉〈点在する ビルの<u>明かり</u>〉〈希望が<u>照らす</u>日まで歩いてこう <u>朝日</u>を浴びて〉(「ホログラフ」)
 歌い出しは〈旅をはじめよう/風さえ寝静まった夜に〉で始まる。目的地なんてなくていいのだ、走らなくてもいいのだ、そう吹っ切れたようなアルバムだと思った。そして〈光の影指す方へ〉と、初期と同じく闇を伴うものとしても描かれる。

 こうして見ていると、その時代感のようなものが光と闇の表現に現れている。「暁のファンファーレ」では、〈偽造 履歴 癒着 利権 社会〉(「シェイク」)〈愛国心 モラル 医療 アレもソレも 崩壊はとどまることを知らない〉(「エンドレスイマジン」)など多数の具体的な社会が孕む闇が目立つ。それらは震災以前の繁栄の裏側に押し込められてきた矛盾であり、光で覆ってきたもの・覆いきれなかったものである。光が強いほど影は濃くなるが、光が強すぎると影もなにも見えなくなる。だから盲目に光を目指すのはやめて、旅に出よう、色んなものをしっかり見よう。「暁のファンファーレ」はそんなアルバムである。

 「光の音色-THE BACK HORN Film-」は11月1日公開である。使われる曲は「月光」「生命線」「シリウス」「罠」「幸福な亡骸」「アカイヤミ」「ブラックホールバースデイ」「コオロギのバイオリン」「何処へゆく」「コバルトブルー」「シンフォニア」であるらしい。そこには光・闇的な表現が直接は入っていなかったり、アルバムに入っていなかったりでこの文章に載っていないものもある。
 曲の年代もベクトルもバラバラであるこれらの曲をどのように再構成するのか。今回焦点とした歌詞に加えて、曲や映像という面でどのように「光」が描かれるのか。そのような視点でこの映画を見てみるのも面白いと考える。

μ’sの影―それは彼女たちの奇跡―

ギブスさやわかさん課題のラブライブ論です。
命題の真が続いた奇跡の存在であるμ'sと偽であるモブキャラ達、そしてアニメというメディアについて。

 

 コミケが開催され、今年の人気コンテンツ筆頭である「ラブライブ!School idol project」(以下、ラブライブ!)の話題もまたTwitterのTLに流れてくるようになった。今回はこの「ラブライブ!」について私が思うことを述べる。

 この作品は元々は雑誌・音楽・アニメーション3社の合同企画で、ユニット編成などにユーザーの声を積極的に採用しながら「μ’s」という2次元のアイドルグループを形成していくプロジェクトだ。最初の展開は紙面での連載やCDの発売・声優のライブのみであった。2013年冬にテレビアニメ第1期が放映されたが、この時点ではアニメ好きが知るだけで大ヒットはしていなかった。しかし、2013年6月頃からスマホゲーム「ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル」(以下、スクフェス)が配信され、このゲームをプレイしている人を「ラブライバー」と呼ぶなど知名度がかなり上がった。無料でクオリティの高い音ゲーであったこともあり、アニメ好き以外のバンドサークル内でも流行したりと現在ではユーザー数400万人を達成している。そして2014年春にアニメ第2期が放送され、映画化も決定した。

 私も例に漏れずにスクフェス→アニメ→それ以前の曲という流れでラブライブ!を辿っていったのだが、そのようにラブライブ!を見ている中で、あることが気になった。それはアニメ版2期のOP、最終話EDなどの背景に描かれている女の子達(モブキャラ)たちである。彼女らは応援しているような動きを繰り返し、μ’sのライブが盛り上がっているように演出する。アニメはその性質上「偶然映る」といったことは有り得ず、そこにモブがいなくても物語は成り立つ。なのに重要な場面で彼女らは登場するのだ。私は彼女らがいることによって「盛り上がっている」以外のことを感じた。それはμ’sに「なれなかった」モブキャラたちの切なさである。

 アニメ版のμ’sは、徹底的にDiYの手段を取る。作詞作曲はもちろん、ダンス指導や戦略も全てメンバーが行う。成長の仕方はとにかく特訓というスポ根的な方法で、危機が訪れた時は自分たちだけで乗り越えるか、所謂「神モブ」(名前が付いているのでモブではないのだが)と呼ばれる3人組が手助けをしてくれる。モブキャラ達はμ’sを応援するか、神モブの指示でμ’sの力になることしかしない。同じ学校にμ’sという輝いている存在がいるのなら、新聞部が取材に来ることやスタッフ・またはメンバーになりたいと訪問する人(神モブは実質スタッフであるが、3人というのも少なすぎる)がいてもおかしくない。だが、それもない。物語の進行上必要がなかったからかもしれないが、訪問者によって新たな物語を作ることも可能であったはずだ。モブとμ’sの間には暗黙のなにか超えてはいけない境界のようなものがある。モブ達はμ’sと同じ学校に通いながらも、それ以上でもそれ以下でもなくただの「ファン」の立ち位置を徹底するのだ。他の大人向けアイドルアニメではプロデューサーや先輩などもっと多くの役割の人が登場してアイドルを取り巻いているのに、少し不自然である。

 そう考えると、モブ達はアニメを見ている私の化身のように見えてくる。それまでの雑誌の連載やCDのようにユーザーの声をその都度取り入れるのが困難であるアニメというメディアでは、私たちはμ’sをプロデュースすることも、神モブのように具体的に助けることはできない。アニメを見る私たちにとって、μ’sは「触れられないアイドル」である。そこには越えられない境界があり、私たちは「ファン」として振舞うことしかできない。
 アイドルもの(以外の最近流行しているものも殆どそうだが)では「私たちがいかにそのコンテンツに関わり一緒に面白くしていくか」がヒットするために重要なこととなっている。だからこそ他のアイドルアニメ(「THE IDOLM@STER」や「うたの☆プリンスさまっ」など)ではファンももちろんいるが、プロデューサー・マネージャーなどを主人公として描いていて、視聴者はそこに自分を投影しやすいように作られている。そのようなアイドルのサポートキャラに感情移入してアイドルを育てることも、アイドルといい感じに恋愛することも想像としてはもちろん可能である。というより、そのような物語の消費がされやすいよう、大抵のアイドルアニメは作られている。
 しかし、一方通行であるアニメの本質としては、アイドルの育成や恋愛は現実的には不可能なことである。その想像を整合性を持ったものとするには作品の脳内改変を行う必要があり、二次創作としてアニメ以外の土壌に身を置くか、もっと個的な妄想として留めておかなければならない。それは、現実でのアイドルと私たちの関係にとても近い。そのような不可能性が、「○○は私のものだからグッズを付けないで!」と同じキャラが好きな人(同担)の鞄からそのキャラのキーホルダーや缶バッジを強奪するような「同担拒否事件」にも繋がる。ラブライブはそういったアニメの不可能性を知ってか知らずか、徹底的にそこを排除したものとなっている。

 では、モブ達とμ’s達を分けるこの境界はなにであったのか。それは「奇跡」としか言いようがない。もちろん先に挙げたように、練習シーンを描かれる頻度が高く、μ’sが成長をするために練習をたくさん重ねてきたという要因もある。だが、μ’sが困難を乗り越えるとき、理屈では説明できないような奇跡がしばしば起こる。例えば、「雨やめー!!」って言ったら本当に雨が止むし、雪で交通機関が麻痺しているので吹雪の中を走ってライブに間に合うなど、「アニメだから仕方ない」と言ってしまえば終わりだが努力や成長どころではない要素がμ’sの物語に大きく関わっているのだ。
 これがμ’sとモブ(私達)の間にある違いである。それを起こしていたのはもしかして違う人だったかもしれない、奇跡が1つ起こらなければμ’s自身もモブの中の一員でしかなかったかもしれない。そんなギリギリの中で大きくなっていったμ’sだからこそその成長は感動的なものなのである。ライブシーンの背景に描かれた女の子達はμ’sの影であり、μ’sはそんな女の子達の光なのである。そこにはソーシャル戦略のような具体的なものによる成長ではない、もっと純粋に応援したくなるような作用が生み出されているのだ。

  「さあ行こう 私達と一緒に 見たことのない場所へ! 見たことのないステージへ! 叶え、私達の夢! 叶え、あなたの夢! 叶え、みんなの夢!」

 これは、ラブライブ!第2期最終話の最後のμ’sのセンター(主人公)のセリフである。印象的なのは「私達」と「あなた」は別であるとはっきり言ってしまっている点だ。あなた=アニメ内のファンに向けたメッセージかもしれない。しかし、メタ的な発言であると捉えればあなた=アニメの視聴者であるかもしれない。アニメ版ラブライブ!は視聴者=ファンと徹底的に規定し、そこに境界を設けた。それは、μ’sが関わった多くの奇跡の反動である。奇跡がより超常的で回数が多いほど、そうならなかった時としての普通の女の子が潜在化してくるのだ。その潜在的な女の子達=私達もなにか奇跡さえ起これば夢が叶うかもしれない、そんな希望を与えてくれる。

『話題の「変な」新曲』―くるり「liberty&gravity」―

ギブス岡村詩野さん回②課題。
くるりの「liberty&gravity」のレビューを1000字程度で、といったものでした。

 

 発表当初、「変な新曲」と話題であったくるりの「liberty&gravity」。どうやらライブで初披露して、発表前から「変な」新曲と話題になったらしい。そして、くるり公式はそれを意図的にPVの紹介文にも入れている。たしかに日本の音楽シーンにはあまり出てこない曲なのかもしれない。だがしかし、この音楽の「変さ」に食いついた音楽好きが「変だ」と騒ぎすぎて、私個人としてはこの曲を「変だ」と思いたくなかった。というか、(今回はPVを除いて)曲単体としてはほんとうに変なのだろうか?

 思いつく「変そうな」要素をひとつずつ見ていこう。様々な民族楽器が入っているような音楽は、インターネットの発達によるグローバル化の影響で他にもある。曲が長いというのも6分半くらいならたくさんあるし、リズムもマーチなどを使っているが変という程でもなく、歌詞がもっと変な曲はメジャーインディーズ問わずある。メッセージも、ユニコーンの「働く男」とももいろクローバーZ労働賛歌」といった労働賛歌とほぼ同じで、「働こう」「頑張ったらいつかきっと報われる」「会えないけど君が支え」的な歌詞が共通している。そうやって考えていくと、おそらくこの「変さ」の印象はメロディやハーモニーから来ているのだろう。

 その「変な」メロディやハーモニーはどこかアジア的である。全体的にインドとか昭和の日本の曲とかを思い出すような、東洋の民族的な雰囲気が漂っている。その雰囲気の違いは西洋と東洋の古典的な音楽を聴き比べるとわかるように、メロディ・ハーモニーに対してのアプローチが根本から違うからだ。西洋の音階は「ドレミファソラシド」で、短調長調などシステマティックである。だが、東洋の音階は「ドレミ~」で表せない音が存在したり、使う音の組み合わせが西洋人からすると不協和音に聞こえるものも多い。ここで私が思ったことは、私たちのいる日本が東洋であるにも関わらず、西洋風の音楽を「普通」として東洋風の音楽を「変」とすることが変ではないか。そして、東洋風の音楽を『「変な」曲です』と言われて『たしかに「変」だ』と受け取ってしまうことが変ではないか。くるりはおそらく、公式PVにわざわざ『既に話題の「変な」新曲~』と紹介文に入れてそのような日本という国の矛盾を皮肉ったのだろう。私たちの「普通」を問い直すような、挑戦的な曲がこの「liberty&gravity」なのである。

複製不可能な音楽

柴さん>ブログ書きました。昨日のTHE BIG PARADEと『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を通して考えたこと。 / “音楽の「コピーできない体験」はライヴだけじゃない、という話 - 日々の音色とことば” http://t.co/B3mMED6tWp

 

 

サマーヌード思い出した。音楽と記憶の繋がりは複製できない個々のもので、逃げたり捕らわれたり抑圧したり糧にしたりできる。それを上書きしたり忘れたりもできる。消費されない心に残る音楽を作るには、個々の記憶といかに結び付くか、個々にどれだけ寄り添ってあげられるかなんじゃないかなあ。

寄り添うっていうのも同調したり気持ちを汲んで連れ出したり見守ったり色んなスタンスがあってそれは個々状況それぞれで。だからこのやり方が正しいだとかこうすれば売れるっていうの関係なしにそれぞれ良いと思う音楽が広まって、自分に寄り添ってくれるような音楽がみつかる世の中になればいいなあ。

複製可能な音源でも、複製可能じゃない繋がりは作れる。どう出会うかだよね。その上でCDもDLもストリーミングも選択肢のひとつでしかない。ライブの強さは体験という記憶と音楽を強制的に結びつける権力のようなものを持っているなあと最近思っていた訳です。だからあんまフェス文化は好きじゃない

N次創作とはなにか

ダ・ヴィンチ進撃の巨人特集を読んで。
濱野智史さんは「進撃の巨人は2次創作・N次創作の対象として非常に人気があり、その理由として?シリアスな中でも日常が丁寧に描かれている?絶望的な世界だからこそネット空間の中だけでも平和な生活を送ってほしいという読者の願いが挙げられる」と語っている。また、「巨人たちの多様で匿名的な特徴がネット空間における私達と近く、それが想像を駆り立てる」らしい。

うん、私にはよくわからなかった。

 

「2次創作・N次創作の対象として非常に人気」なのは読者が多いから単に創作母数が大きいのと、もし考察のことも「創作」と想定しているのであれば、謎の多い展開なのだからそれは当然のことである。N次創作のプラットフォームの代表であるニコニコ動画によると、キーワード「進撃の巨人」で検索すると17754(2014/09/06 0:31閲覧)の動画がヒットする。しかし、同年代のヒットコンテンツである「ラブライブ!」で11052(内、公式視聴動画が82)(同日0:32)、同年代でもない「けいおん!」で30518(同日1:00)「エヴァ」で24313(同日0:35)(更にエヴァは「ヱヴァ」などの表記もあり実態は更に多いのではないか)と、特に進撃の巨人が「シリアスだから」人気な訳ではなさそうだ。?の心理自体は理解できつつも、?はどうも関係なさそうである。

 


そもそも私は「N次創作」という言葉に違和感を覚えている。確かに、初音ミクをはじめとするVOCALOIDを使って、1次創作である楽曲に対して「歌ってみた」「弾いてみた」「踊ってみた」「MMD」「PV」「イラスト」「小説」などの2次創作が生まれ、それを元にして新たな「(曲+イラスト)歌ってみた」「(曲+MMD)踊ってみた」「(曲+小説)イラスト」などの3次創作が生まれることはある。しかし、4次創作・5次創作・・・と無限に連鎖していくというのはどうも拡大しすぎではないか。殆どの作品はおそらく、3・4次創作あたりが限界であると私は考える。それ以降は「歌ってみたを参考にした歌ってみた」のような、創作というよりは「コピー」と言った方が妥当なものばかり出てくるだろう(「カバー」は新鮮味を感じられる創作物であり、「コピー」は自分もやってみただけで作品をただなぞるようなものであると定義する)。無限に連鎖するような作品が出てくるのは希である。(「こういう例がある」というのがあったらぜひ教えて欲しい)

更に、この「N次創作」というものは別にアマチュア界隈に限ったことではない。たとえば、今回の「ダ・ヴィンチ」でも作者の諫山さんが「どんな漫画家に影響を受けたか」という質問に答えるインタビューがある。そこでは『ONEPIECE』や『GANTZ』などを挙げていて、たしかにその影響は見え隠れする。では、「『進撃の巨人』は『ONEPIECE』その他諸々の2次創作であり、『ONEPIECE』が影響を受けた『ドラゴンボール』その他諸々の3次創作にあたり、『ドラゴンボール』が影響を受けた・・・N次創作である」とは言えないのか。ニコニコ動画における「コンテンツツリー」やピアプロの「作品繋がり」は階層が違うが、構造的にはそのような「インスパイア」と同じである。

インターネットの拡大・普及によって素人が作品を発表できるようになったからこのような状況が生まれているだけで、「N次創作」という現象はなにも珍しいことではないのではないか。

もし、それでも「N次創作はあります!」といった場合、私の疑問としては「どこまでが創作か」ということだ。例えば、「Free!」の場合はイケメンが多数登場して小説・イラスト系2次創作を作らせようという魂胆は見えており、その上1期2期EDの映像が共に「アラブパロ」「職業パロ」といった想像を誰しもがしてしまうようなものになっている。このような「作り手が狙った2次創作」はもはや1次創作の一部なのではないか。

まあなんとなくこんなことを思いました。濱野さんの本は読んでないので、思い違いあったらごめんなさい。