雑記

140字じゃ書ききれないこと。 (@tkkr_g)

『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』感想

観ないと文句は言えない、と思い悪い意味で話題になった実写版進撃の巨人を見に行ってきました。
うん。

 

 

 原作は読んでますが、「原作通りじゃなきゃ許さない!」みたいな原作厨ではないです。しかし、そんな私でもこれはどうなんだ……?と思ったことがいくつか。

 まず、何故わざわざカップリング描写を作ったのか。
 男一人に対して相手役っぽい女の子が一人は付くんですよね。エレンやアルミンにも。おそらく、「命を生み出さない、繁殖行為をしない巨人」と「命を生み出す、愛に溢れた人間」を対比したかったのでしょう。でもなんかそれは価値観が古いというか、この時代にそして進撃でわざわざこの要素を足す必要があったのかは疑問です。物語に深みが加わる訳でもなく、むしろ浅く感じてしまいました。「子持ちは…嫌?」で大爆笑しましたけど。

 次に演出について。特撮臭がプンプンしました。まあこのCGの時代に特撮と合わせてやるっていう技術的なことはいいんですけど、演出そのものが特撮ぽくてあまり慣れてない私は気になってしまいました。3D・4DX用なのだろうかとも思うんですが、血がカメラレンズに付く演出は逆に向いていないんではないかと思います。

 物語についてはまあ、長い作品なので切り取り方に苦労したんだと思いますが、中途半端に原作をなぞっているので面白みにかけるというか。新鮮さもなく、かといってうまいまとめ方なのかというとそうでもなく。うーん、まあ後編のもっていき方にもよるんだけど。

 キャラクターたちも原作のキャラもいるのに「愛すべき馬鹿」感がなかったり、誰だお前みたいなのが混じってたり、いっそ全員オリジナルキャラにしてしまえ!と思いました。なんで斧とか弓が活躍してんだ。

 

 なにがよくないって、一言で言うと中途半端なのが悪いんだと思うんですよね。多分がんばってメッセージを込めた作品なんだけど、メディアミックスが下手くそ。
 『進撃の巨人』としてではなく、違うターゲット層に向けてだったらウケる要素はあると思います。

4月30日 THE BACK HORN 「人間楽団大幻想会」

なんだこのタイトル(笑)。
と思いながら渋谷公会堂へ。

市役所の真横でいつものライブハウスとは全く違う雰囲気、そしておばさんファンが目立つこと(笑)。
広場の何箇所かでバクホンTを着たマダム達の会合が行われていました。
おばさんファンが多いのもバクホンの特徴ですかね。


今回のライブはなかなか特別仕様で、感想を書きたかったので残しておきます。レポートとかじゃないです感想です。
ちゃんと覚えていない部分もあるので違う曲でのできごとだったりしたらごめんなさい。DVD化されないかなあ。

 

 

1.航海

開演前に「あれは普通の幕ではなく網戸スクリーン???」と思ってたらほんとにそうでした。
でもなんか模様をなんとなくくるくるさせてるだけで活かしきれてなかったのがTHE BACK HORNクオリティ(笑)。
「変にお洒落なことしなくていいんだよ?あ、他の曲でなんか活きるのかな?」と思ってた。…思ってた。

イントロ始まって「え??この曲から????えっと…『航海』だ!!!!!マジかwwwwwww!!」という感想でした。
そしてストリングス&キーボードを含めた編成の登場。よりドラマチックな曲に仕上がってました。

この曲か・洒落た演出マジかという驚き嬉しさ&音の厚み・ドラマチックさの感動で、私は泣きながら笑ってました。
この泣き笑いはこの先何度もぶり返すことになります。

 

2.光の結晶

そしてイントロ1音目と同時に網戸スクリーンが床に落とされる。「え!?幕そんなハケ方!!??もう終わり!?!?」
そしてストリングスとキーボードもいなくなりここからいつもの4人で。

ツッコミたい気持ちを抑えられずに笑ったままノっていました。
スポットライトとか、照明もいつもと違って演出しにかかっていました。

 

3.涙がこぼれたら

岡峰さんのいつものスラップから。

冷静に遠くから落ち着いて聞いてもバックホーンってすごい力強いよな、というのを再確認。
21列目(けっこう後ろ)まで、その熱量が伝わってきました。

 

軽くMC

 

4.罠

ストリングス達また来るかなとわくわくしてましたが、まだ4人で。

栄純wwwこんな目立つ曲のソロでwwwミスるなよwwwwww
という事件(?)もありましたが昔に比べれば全く不安感を感じないんです…。

 

5.ひょうひょうと

いいっすねえ、この曲。
就活している身にはとても沁みます。

お酒がほしい時間帯。

 

6.バトルイマ

なんかこう改めてホールというまだ冷静な状態でだと、「イマ!」のタイミングってそれまで4分でノってると手上げにくいですよね(どうでもいい)。

栄純のギターがソリッドですごく格好良かったです。

 

MC

とってもぐだぐだしてました(笑)。

 

7.悪人(新曲)

将司「新曲やります」
客「おおおお」
将司「聞いてくれ、『悪人』」
客「ざわっ…(え、タイトルダサくね?)」

なんか「メタルですか?」とツッコミたくなるような出だしの栄純のフレーズでハラハラしながらも、コワレモノ系の渋い雰囲気も活かしつつの曲。練習不足感が…こう…。
なんか早口やら色々入れてごちゃごちゃした曲だったので音源でちゃんと聞きたいと思いました。
展開があって面白いです。

 

8.舞姫

ここからストリングスとキーボ参戦!!
ただでさえドラマチックなのにストリングスキーボ入ると更に迫力が増しますね。
ストリングスがいることで栄純が自由にやってて楽しかったです。

「はらり~」の後の追い込みがめちゃくちゃ格好良かった。

 

9.アカイヤミ

アカイヤミでwwwwwwwwwストリングスっすかwwwwwwwwwマジかwwwwwwwwwwww
と思ってましたが以外とハマってました。

いつものこう…歯を食いしばりたくなるような痛さかげんはなかったけど、より心にくる感傷的な感じの仕上がり。これもアリ。

 

MC

ぐだぐだ
岡峰「『アカイヤミ』の後にこんなMCしちゃうのが俺らのすごいとこだよね」
山田「曲終わってから誰かが喋りだすまでの探り合いがね、『お前いけよ』みたいなのがね、こう…歳とともに長くなっていくよね(笑)」
みたいなことを言っていて大爆笑。

最近の将司は笑いも取れるし煽れるし、毎回思ってるけどほんとに大人になったなあ…と。しみじみ。

 

10.冬のミルク

ストリングスが抜けて、キーボードと共に。

なんかちょっとハネた感じのリズムアレンジにしてました。
普段の冬ミルはストレートすぎて年齢にそぐわなくなっているなあと思ってたので今回のアレンジとても良かったです◎。普段の冬ミルも曲としてはそっちの方が好きですが。
ストレートなことをちょっと茶化しながら歌ってる感じで、今の30代もう後半になるTHE BACK HORNにはこれくらいの方がいいアレンジ。

 

11.白夜

キーボードと共に、少しジャズっぽいアレンジ?
かと思いきや途中でブルースに戻ったり、なんかこっちはとっちらかった印象。

こういうアレンジするなら歌がもっとふざけて遊んでもいいし、後ろノリなのかなんなのかハッキリさせてほしかったかなあと思いつつ。
トリビュートの曲作る時みたいに、もっと大きく崩してくれた方が面白いのに。中途半端に感じてしまいました。

途中でギター→キーボ→ベースとソロ回ししてたのはめっちゃ格好よかったです。
キーボードってこんなにハマるんだ、って。あと岡峰さんやはりゲロうめえ。

 

12.泣いている人

ここからまたストリングスとキーボードも。

これも物語のある曲でストリングスパートがハマってましたね。ほんとによかった。
将司と栄純だけになる語りの部分との対比がより感動的でした。

これと次の曲は聞き入りすぎて気付いたら何回も口が空いてました。
ポカーンとするくらいよかった。

 

13.美しい名前

ストリングスも最初のフレーズやってて、いつもより力強い仕上がりに。

いつもの切実な曲ではなく、もうちょい離れて物語っぽくなってました。
やっぱストリングス入ると壮大になるから物語っぽくなっちゃうんだろうね。感動を誘うような。

でもハーモニーがすごく綺麗でした。

 

MC

山田「普段男ばっかのムサい現場なので、リハスタにバイオリンの方々が来て…普段より無口になったのは否めないよね」
栄純「将司モテようとしてたよね?」
山田「翼Tシャツ着てね、茨木背負ってっから。光舟なんてギンガムチェックのお洒落な服着てさ!いつもはTシャツなのに襟付きのシャツ着て!!!」
岡峰「(なんか弁解してるんだけどマイクがない)」

 

14.戦う君よ

え、この曲もストリングス!?
と思ってましたが(2度目)、メリハリのある曲なのでそれが倍増されてよかったです。

この曲でいう「さあ走り抜けよう~」みたいに、お得意の最後に開ける展開にはストリングスの壮大さが似合いますね。

 

15.シンフォニア

この曲も意外でしたが、やっぱ「何も変わらなくても洗い立てのシーツが~」はとても感動的でした。
シンフォニアに泣かされる日が来るとは思ってなかった。

その前のMCの、いつもの「明日からもがんばろうな」の後だったのもあってとても沁みました。

ジャキジャキしてなくてちょっとやわらかいシンフォニアで、「シンフォニア」っぽいと思いました(小並感)。

 

16.ブラックホールバースデー

これもwwwストリングスかwwwwww
最後まで攻めるなと思いましたが、「ダーン」の裏でいい感じに緊迫感を出してくれていました。

この曲は壮大になるというより、逆に緊迫感が増してました。ブラックホールへの吸引力が強まってるイメージ。

 

MC

なんか将司が言葉詰まったのは、ちょっと泣いてた?

「また会いましょう」ってほんとにいい言葉ですね。
今回は「生きて、また」みたいなことも言ってて、いやその通りなんだけどそんなこと言うなんて大丈夫かなこの子って思った。岡峰さんが幸せそうな分、最近様子がおかしい将司が心配ですね。

 

17.世界中に花束を

最後の曲、ということでこれ。

合唱団が出てきたけど、最初の方はあまり聞こえず。でもラスサビ直前から音量が上がり綺麗なアンサンブルに…!最後の盛り上がりすげえ!ってなりました。

 

アンコール
ここから4人のみ

18.ラストデビル?(新曲)

将司「新曲やります」
客「おおおお(サービス精神旺盛だなあ)」
将司「聞いてくれ、『ラストデビル』」
客「ざわっ…(え、更にタイトルダサくね?)」

こちらの新曲は、イントロで「お、なんかソリッドな勢いのある曲だな?」と思ってたら、歌メロが「 完 全 に 歌 謡 曲 だ 」となりました。うん、歌謡曲

不思議なバランスの曲でした。
9mmの印象に近いですねそう考えると。

 

19.コバルトブルー

いつもの。

あ、ここまで特別な曲やっといてこの曲で終わるのね(笑)と思いつつも、これから現実に戻って風の中で砕け散るのかな…なんて思うと今日この日ここにいられてよかったなと再確認する儀式のような曲です。
条件反射でグッときますもはや。

 

 

【まとめ】

なんといってもストリングス&キーボード入るのもめっちゃいいですね!

いつものは限界に挑戦するというか、どこまでぶつかれるかみたいなところもあるけど、今回のはエンターテイメントだった。エレカシパイセンの影が見えました。
たまにまたこういうのをやってほしい。最後まで意外なことばっかりて、泣き笑いが止まりませんでした。

バックホーンの曲は静と動のメリハリがあって、最後の展開でドラマチックに開ける曲が元々多いので、そこに厚みが加わるとより情動に響くと感じました。
ドラマチックすぎて怖いな、と感じることも何度かあったほど。この編成では映画やドラマに使われてほしくないな、と。

でもそれだけのポテンシャルを持った曲がきっとまだまだあって、アレンジの可能性が広がってて、それを表現できてしまう彼らの懐の深さを改めて見せつけられました。
10周年のあたりで「バックホーンという怪物」という話をよく言ってて、最近はその話はあまり出てないけど、今回で「やっぱ怪物だわ」と思いました。
だって「アカイヤミ」にストリングス足すとか意味分かんねえもん。なんで成り立ってんのかわかんねえもん。

可能性として、ディナーショーとかやってくれたら3万でも行きます。


見たことのないバックホーンの一面を見ることができて、もっと好きになりました!
沼ですねほんと。新曲も楽しみにしています。

死者と共に生きる―共に歩く、そして名前を呼ぶ―

死の制度という授業のレポートで書いた『光の音色』からのバックホーン批評です。
これに他のことをごちゃっと詰め込んだものがそのうち批評家養成ギブス終了批評集に載ると思われます。でもこっちの方が好き(笑)。

 

 人は皆死ぬ―それは我々が生まれた時から唯一決定されている運命である。そしてその悲しい運命をどのように受け止めるのか。そのことは古来から宗教・哲学など様々な分野で考えられている。授業では、「愛する人が死んだとき、残された者はそれをどう扱うか」というテーマで色んな作品を見てきた。そこで私が感じたことは、「愛する人の死と向き合う」=「死んでいても愛する人と共に生きることと向き合う」ということだ。それは例えば、古屋誠一の作品で妻の写真や日記を残すことである。それを営みにすることによって、2人が出会ってからの妻の人生を古屋が背負い、死者と共に生きていくことができるのである。「愛する人の死」という出来事をどのように扱うのか、そのことを描いた映画とその題材になっているロックバンドを今回私は取り上げようと思う。
 2014年11月に公開された『光の音色-THE BACK HORN Film-』は、THE BACK HORN(以下、バックホーン)という日本のロックバンドの曲・演奏を元に熊切和嘉監督が映像・物語を織り交ぜた映画である。バックホーンの生と死に真っ向からぶつかる曲、そこからインスピレーションを受けた物語はリアルなまでに「愛する人の死と向き合うこと」を描いている。物語は理不尽な死に方をした妻を埋葬しようとしている老人のシーンから始まる。その老人は穴を掘ったものの妻を埋められず、〈旅を始めよう/祈りが途絶えそうな夜に〉で始まる曲(「月光」)の後、妻の遺体(と途中で出会う老犬)と共に子供の頃に2人で遊んだ海への旅を始めるのだ。
 物語の舞台は「世界の果てのような場所」である(撮影はロシアであるが)。その道は荒れていて、妻を台車で引きずりながら歩いていくことは老人の力と体力ではとても大変だ。そのように大変なことを老人は何故行うのか。全編に台詞はないので語られてはいないが、想像することはできる。愛する人は死んだがそこで愛する人の人生は終わるのか、理不尽なまま人生を終わらせていいのか、そのような想いから老人は妻と共に歩み始めるのではないか。それこそが老人が「愛する人の死と向き合う」=「死んでいても愛する人と共に生きることと向き合う」ことによる答えであったのだろう。「共に人生と歩む」という言い回しがあるように、「人生」と「歩く」ことはどこかで結びついていて、共に歩むことは共に生きることの表象としてこの映画では描かれている。
 「人はいつ死ぬのか」――「呼吸が止まった時」「心臓が止まった時」「『死んだ』と認識された時」「人に忘れられた時」……。この問いの答えは時代や状況などによって諸説ある。実際に私が祖父の死に病院で立ち会った時は、私や家族に「祖父が死んだ」という喪失感を最初にもたらしたのは心電図の静寂ではなく、その後の医者の「お亡くなりになりました。」という言葉であった。その時、目の前で人が死ぬ瞬間を目撃したにも関わらず、「人の生死の境目はなんて曖昧なのだろう」と実感したのを覚えている。
 この映画を見ていて、妻の命はなくても老人と共に旅をしている時はどこか観念的に「彼女はまだ死んでいない」と私は感じた。それは老人が妻と共に歩いて=生きているからである。最終的に目的地の海直前で老人は死ぬ(=妻も死ぬ)。しかし、その後に海に向かって歩く2人がスクリーンに映し出される。それは旅を共にした犬が見ている幻想なのだろうが、私たちもこの映画を犬と同じような立場(老人と妻の結びつきの外)で見てきたことで、犬と一緒に2人の歩みを見守っているような感覚になる。その感覚によって、物語の中で2人は死んだが、私たちの心の中では生きはじめる。つまり、老人が妻の命を背負った旅を見守ることは、犬や私たちがその2人を背負って共に生きていくことの始まりとなる(その後2人を背負って生きていけるかはその人次第であるが)。
そしてそれは死んだ祖父が私の心の中で生きていると感じることと近い―2人の旅=生から何かを感じ、忘れられなくなるような経験である。そのような経験はフィクションであろうと関係なく訪れるのだ。今私の中には実の祖父はもちろん、この映画の2人も生きている。命はなくてもその魂(いい言葉が浮かばないので仮にそう名付けておく)は生き続け、私の一部として私を豊かにしている。こうして、命は繋がっていく。もしも今後私が死んだとして、もはや老人と妻の原型は失われているであろうが、私の魂の一部として私の子供や友達へと受け継がれていくだろう。それは種、あるいは命あるものとしての大きな生命の連関である。私たちは個体としては生まれて死んでいく独立した命を持っているが、生命として遺伝子的にだけではなく精神的な魂も繋がっていくのである。
 命は死ぬが魂は生き続ける――これと似たメカニズムを持ち、「愛する人の死と向き合う」上で重要なものがある。それは名前だ。名前は生まれた時に付けられ、そしてずっとその人と共にあるものだ。そして、「N・N氏が死ぬときはその名の担い手が死ぬのであり、その名の意味が死んだとは誰も言わない。」とウィトゲンシュタインが言うように、名は人と共に死ぬのではなく生き続ける。バックホーンの「美しい名前」では、〈何度だって呼ぶよ君のその名前を/だから目を覚ましてくれよ/今頃気づいたんだ君のその名前が/とても美しいということを〉と曲のクライマックスで歌われる。このような「名前を呼ぶと死者が目を覚ます」気がするという想いは、ドラマなどでも人が死ぬ時に名前を呼ぶことに表れている(「光の音色」は言葉がないので名は呼ばないが)。川田順造『声』によると、「死者の名を呼ぶことは、死の側に入ってしまった者を、新生児の場合とは逆に、はっきり生者の側に位置づけながら、ことばによって生者とかかわらせる行為」である。つまり、名前は人と生を関わらせる力を持つものであり、死者の名を呼ぶことは死者を生の側に引き寄せて「死者と共に生きる」決意や願いのようなことであるのではないか。
 少ししか取り上げられなかったが、バックホーンの持つ死生観として「人は命をなくしても死なない」ということがある。生と死ははっきり境界がある二項対立なのではなく、どこか曖昧で境界のぼやけているものであると表象されている。もちろん、老人が妻を埋葬して一緒に生きてきた家で暮らすこともひとつの形であっただろう。しかし、2人は周りに他の家もない場所に暮らしていた。それでは2人の魂を受け継いで、共に生きる者がいない。2人は旅に出ることで、その旅を見守る犬(と観客)の存在を得た。そうすることで、2人の魂はより大きい生命の関わりを持つことができたのである。共に歩く=共に生きる=名前を呼ぶ―その生の側に死者を位置づけようとする営みは、「弔い」や「悼み」とまた少し違う営みである。これらも、「愛する人の死と向き合う」=「死んでいても愛する人と共に生きることと向き合う」ことのひとつの答えであるのだ。

映画 近キョリ恋愛

柿谷先生オススメの近キョリ恋愛見てきました。
櫻井先生よりゆにちゃんより、的場くんに胸キュンする結果に。
また思ったことをつらつら書いておきます。私よりも先生の批評の方がすごいけど。

 

・視線
2人とも物怖じせずに「見る」シーンが多かった。だからこそ共通してなんかあったらすぐ逃げたり背中を向けたり、「視線から逃げる」シーンも多かった。櫻井先生の「見てる」の台詞にも繋がる。そして立場のこともあって、2人は他の人の視線から逃げるように海へ行く。
それに関連して、最初の方のシーンはお互いの背後から登場するシーンが多い。最初に櫻井先生がゆにに声をかけるシーン、職員室でわざわざドアと逆側から櫻井先生が登場するシーン、教室でドアに背を向けて櫻井先生が待ってるシーン...。付き合ってからは後ろから抱き締めることも多い。2人の気持ちのすれ違いを2人の対面する方法によって効果的に描いているのだ。だから最後に正面から抱き合うあのシーンで私たちは感動する。

・「青い夕日」
結末のキーとなる「青い夕日」。もしこれが普通の夕日であったら、「斜陽」という言葉から連想するように、2人の恋愛はうまくいかない予感がする。しかし、ここで普通とは違った青い夕日を使うことでなにか「特別」な気がして、うまくいくのじゃないかという期待を持たせてくれる。

・設定について
「悲鳴とかバカにしたような笑いが聞こえて、普通の人が恋愛シミュレーションゲームをやったらこんな感想なんだろうなと」って私が呟いたのと、先生の呟いてた「櫻井先生の私服が普段の山Pみたい(眼鏡と帽子も変装っぽい)」というのを合わせると、やっぱりこの作品は映画というメディアで乙女ゲームの世界観を繰り広げてるんだなあと。先生・生徒とアイドル・ファンはけっこう置き換え可能な設定だし。的場くんルートください。

・その他
櫻井先生も一緒にアメリカ行けば?と思ったのは私だけ(笑)?
保護者の先生が校長室のノックをやめた時、でもずっと校長室の表札?を画面に入れてて「映像すげえな」って思った。
的場くんがほんとに格好いいです。他の人どうでもいいんで彼にだけは幸せになってほしい。

光の音色 二回目

・「月」
出てくる光は眩しく一直線の光ではなく、拡散するやわらかい光である。それは自然界にある光であり、THE BACK HORNの歌詞のどの時代にも共通してある光の在り方だ(一直線の光も中期以降出てくるワードではあるが)。
光の音色だけでなく、光の歌詞・映像がつまっている。

・「身体的なバンド」
ライブを映画で映像化して、飽きない・飽きさせないバンドは日本にどれだけいるのだろうか。演奏の音は正直低音は少ないし、ガンダム00の時に閉ざされた世界を映画館で聞いた時の方が迫力があって感動した。しかし、その演奏する身体で魅せることができる、背景がなくても栄えるのがTHE BACK HORNというバンドである。
コバルトブルー前に岡峰さんのストラップが落ちるのもその身体性の現れである。
<strong></strong>
・「煙」
水辺での煙・タバコ・砂埃...様々な場所で現れる煙は輪郭(=ものの境界)をぼやけさせる。

・「死体」
東日本大震災以降、それに伴う津波による死体を映さない(見つからない)ニュースに慣れてしまったせいか「姿のない死者」のイメージが横行している。死者を映すことは「不謹慎」であるとまで言われる。そんな中できちんと死体を映し、死に伴う埋葬・腐敗の描写までも描かれている。腐敗の描写をハエがたかっている部分だけで終わらせているのは残念であるが(腐敗しているのに背負えるのか?)、それでもそれぞれの描写には鳥肌が立った。

FINAL FANTASY Record Keeper ―物語の在り方―

FINAL FANTASY Record Keeperというゲームと物語について。
CMが素晴らしかったのでプレイしてみましたが、私がFFやったことない(正確にはFFCCだけやった)人なので面白くはなかったです(笑)。でもいいゲームだと思って文章を書きました。

 

 

 

魔法と芸術の調和により栄華を誇るとある王国
この王国には代々語り継がれるひとつの言い伝えがあった
偉大なる物語の「記憶」それこそが秩序と安定をもたらす
王国は世界の安寧を守るべく、偉大な物語の「記憶」を「絵画」に封印した
ビッグブリッヂの死闘」「大空洞」「ザナルカンド」・・・・・・戦士たちの数々戦いの記憶
王国の<歴史省>はその「記憶」を大切に管理していた
しかし・・・・・・

―「FINAL FANTASY Record Keeper」あらすじより


 舞台は物語の記憶が王国を安定させている世界だ。そして、その記憶が封印されている絵画が黒く染まっていくところからゲームの物語は始まり、王国の空は不気味なものへと変化していく。そこで、歴史省に所属している主人公として絵画の記憶をひとつひとつ辿りながら絵画を元に戻し、王国に平和を取り戻すことが目的である。ここで私が気になったことは、
1.「歴史」=「物語」であること
2.「記録」ではなく「記憶」であること
3.「世界」ではなく「国」単位であること
4.「物語」の「記憶」を失うとヤバイこと
5.記憶方法が絵画であること
である。それらをひとつひとつ解釈しながら、物語は私たちに何をもたらすのかを考える。

 1.「歴史」=「物語」であること。
 物語を管理しているのは歴史省であることからこの等式は導き出せる(別に<物語省>でもよかったのだ)。私たちは「物語」と聞くと、どこか自分とは関係ないところで(現実だけではなくフィクションも含めて)起きた出来事を語ることだと思ってしまう。一方の「歴史」は、過去に起こったことの事実として私たちに刷り込まれているものだ。つまり、「歴史」は出来事そのものであるが、「物語」には出来事を語る作者と読者が入り込む。物語に入り込む作者性と読者性は、その作者の考え方や語り口、読者の解釈や経験などによって出来事にノイズ的な不可要素がどうしても入り込んでしまうのだ。だが、一方の「歴史」はほんとうに出来事そのものなのだろうか。例えば、従軍慰安婦問題を巡って「あった」「あったが同意の元だ」「同意もあったが強制もあった」などの議論が行われている(その是非は今は問わない)。そしてその解釈の分岐点は、どの「歴史」書(記録文書)や証言を参考にしてどのように解釈するかの違いであるところが大きい。その歴史書には作者が存在するし、証言者はその記憶を参照しながら発言するため過去の美化・醜化や記憶違いなどある種の作者性が入り込む。そしてそのできごとを体験していない、それを参照する読者もいる。つまり、歴史も作者読者の存在する物語的なものなのだ。
 そう考えると、私たちが信じていた「歴史」の不安定さが露呈してくる。

 2.「記録」ではなく「記憶」であること。
 これは?と似ている。記録は出来事そのものを書き記したものであり、「歴史」という語と共に使われることも多い。しかし、「歴史を記憶する」という言説の違和感からもわかるように、記憶には美化や醜化が含まれ、人の記憶力に限界がある不確実で儚いものだ。違いはそれだけでなく、記録は紙などに書き込まれてそれを見なければ意味のないものであるが、記憶は一人一人の頭の中にあるものである。偉大な物語を記憶していること、それは各々が物語を自分のものとして内化していることだ。

 3.「世界」ではなく「国」単位であること。
 RPGなどでよくあるのは、「世界崩壊を止めるために主人公が戦う」話である。FFRKも別に「この世界には代々語り継がれるひとつの言い伝えがあった」と始まってもなんの違和感もない(むしろ「王国」と言われたほうがどこか変な感じである)。しかし、現実に国民性が地理的に近い同じ母国語圏(メディアの届く範囲)で形成されていくように、歴史も言葉を媒介にして形成される。「語り継がれる」と書いているのもわかりやすいだろう。歴史が問題にされている以上、国を舞台に設定されているのは「さすがFFだなあ~」といった感想だ。つまり、他の国では語り継がれている歴史が違う可能性も大いにある。そのような現代社会も持っている問題を示唆している。

 4.「物語」の「記憶」を失うとヤバイこと。
 具体的にどうなるのかはわからないが、国の秩序や安定が乱れるようだ。私たちの社会では「物語」を失うことは健全な青年の育成に繋がると思われている部分もある。例えば「暴力表現はそれを見た子供を暴力的にする」といった言説があるが、そのような戦う物語を失った世界を想像して欲しい。そういうような「これがあったら/なかったら」という想像力を助けてくれるのも物語である。アニメ「PSYCHO-PASS」では、人の精神の不安定性がシビュラシステムという装置で監視されているシステムが当たり前になった世界が舞台である。精神の不安定性が一定値に達すると牢屋のような隔離部屋に連行され、普通の生活を失うことになる。つまり「こいつがムカつくから殺したい」と思うだけで捕まってしまうのだ。そんな世の中で、シビュラシステムの監視を通り抜けるヘルメットを使ったレイプ殺人が白昼堂々街中で起こる。そんな時、周りの人々はシビュラを信用しきっているので、シビュラシステムが反応しないことに対して「これが犯罪である」という認識ができずにただ傍観しているのだ。もし、戦う物語が存在しない世界になったら、いざという時に大切なものを守るための戦いすらできなくなってしまうかもしれない。それは?で述べた「物語を内化」できていないことにも繋がる。物語の可能性に対する規制は、私たちの想像力すら規制してしまい、危機にうまく立ち回れなくなってしまうだろう。もし、政治家の権力が暴走した時にその想像力がなかったら―国の秩序や安定は簡単に乱れてしまう。

 5.記憶方法が絵画であること。
 絵画も?や?のようにとても不安定なメディアである。写真や動画などのメディアがない世界だからかもしれないが、現実の像としてではなく、誰かの創作として記憶は保存されるのだ。さらに、一瞬を切り取る写真とは対照的に、絵画は下地があったり絵の具を重ね塗りしたりするので、時間の層が折り重なっている。ただ表面だけで何があったかを記述するのならば絵画である必要はない。その奥にある背景や絵画を支える基盤が描かれている物語をより深くするのだ。
 また、文章との比較を考える。文字ではなく像として物語を記憶しているのは、人間が文字で記述されたものは私たちの生きる世界を映し出したものと認識しにくいからではないか。私たちの世界は私たちの五感を媒介として構成されていて、その中でも特に頼られているのは視覚情報である。視覚情報の中で、文字はその構成要素の一部分にしかすぎない。私たちの見る世界は文字だけで成立している訳ではない。ほとんどがものの像で成立している。例えば私が見ているパソコンも私の目を通して現れたパソコンの像である。像で物語を描くということは、ダイレクトに私たちの世界と物語の繋がりを感じることができるのだ。文字で描かれることの多い歴史よりも、絵などで描かれることの多い物語の方が、私たちの心に響きやすい構造なのだ。


 物語とは歴史である。そういってしまうのは極論かもしれない。しかし、現代の私たちは歴史よりも物語の方が身近に感じ、物語から教訓を得て生きている。そこには文化的に大切な役割をきちんと持ち、社会になければいけない理由がある。もちろん、歴史も大切なものである。理論的には歴史>物語が社会には大切だとみんな考えているだろう。しかし実際には、物語が社会を支えているような歴史<物語という構造になっていることを見落としていないだろうか。それに目を向けず、単に物語を規制するような流れは、社会の崩壊を招く。だからこそ私たちひとりひとりが物語を守るもの(=Record Keeper)となって、ゲームの主人公のように物語を守っていく必要があるのだ。