あの『PUI PUI モルカー』がCG映画になって帰ってきた!
元はモルモットが車になった「モルカー」が主人公のハチャメチャアクションストップモーションアニメだ。車なのにトコトコ歩く足、何を考えてるかわからない虚無顔、大きく伸び縮みする体に虜になった人間たちも多かった。それが形態を変えてCGになる不安も巷では囁かれていたが、蓋を開けてみるとストップモーションアニメをそのままCGにしたような表現でモルカーたちの愛らしさはむしろ強調され、一方でCGらしいなんでもありなダイナミックな表現がモルカーたちのパワーを増強し、まさに「MOLMAX」と呼ぶにふさわしい映画であった。(それはそれとしてストップモーションアニメ版を望む気持ちはもちろんわかるが、それを待つ間にCG映画を出してくれた感謝が上回るクオリティだった。)
それはそうだとして、やはり『モルカー』らしさはその明るいだけでない毒も効いたストーリーにあると思っている方もいるだろう。つまり1話3分ほどだったストップモーションアニメが60分の映画になり、映画ということもあって綺麗な話になるのではないか、と。
だが、その点においても「人間は愚か」とどうしても思ってしまうほど、『モルカー』節は全開である。もしも上記の理由でまだ『モルマックス』を見ていない人は、いったんここでこの文章を読むのをやめて、映画館に行って確かめてほしい。大丈夫、あなたの愛する『モルカー』はそこにある。
しかし、この映画を最後まで見て「人間は愚か」という感想を抱くのは少し待ってほしい。改めて考えていきたいのは、人間たちについてである。これまでのストップモーションアニメ版では人間は「わあ!」など最低限のボイスがあるのみだったが、本作でははじめてちゃんと台詞を喋るのだ。そのことで『モルカー』の『モルカー』らしさが浮き彫りになっているのではないか。
『MOLMAX』は、CEO(CV 相葉雅紀)が率いるベンチャー企業「メニメニアイズカンパニー」が開発した合理的でスタイリッシュなAIモルカー(あいもるかー)が社会に普及していくところから始まる。モルカーたちは可愛い一方で、たくさん野菜を食べるため食糧難を起こし、気分屋ですぐに渋滞を起こしてしまうなど、思い通りにならないことが多かった。そこでAIモルカーの有用さを聞いた人間たちは、こぞってモルカーからAIモルカーにまずはレンタルで乗り換えていく。モルカーたちもそこで捨てられるわけではなく、「メニメニアイランド」という遊具も食料もある楽しい施設に預けられるため、それ自体にはあまり酷さはない。
CEOは元々傷付いたり捨てられたりしたモルカーの保護活動を行っており、その時の経験から傷付かず、合理的で統一された規格のAIモルカーを開発したのだ。彼は、かなり社会のことを、多くのモルカーと人間のことを考えている人間だと言える。彼はきっと文字通り「たくさんの愛」を持って「メニメニアイズカンパニー」を作ったのだろう。
ただ、彼の愛は目的のために見失われてしまう。おそらく全くの機械としてAIモルカーを開発するのが難しかったのだろう、AIモルカーは実はモルカーたちにメタリックのカバーを付けて意識を支配することで動いていることが明らかになる。たしかにカバーによって保護されるため怪我をしなくて済むし、モルカーの自由さを律することで問題は起こらなくなった。そして外見が統一されたため、「柄が気に入らないから」と捨てられることもない。
だが言うまでもなく、これはこれでモルカーの意志はどこにあるのかと問いたくなる酷い仕打ちである。人間の都合によってあんなに尊い生き物であるモルカーたちを好き勝手するなんて!と、やはり「人間は愚か」と思ってしまうのも無理はない。
そんなCEOと対置されているのが、行方不明の相棒モルカー・ドッジを探すドライバー(CV 大塚明夫)だ。2024年12月7日に行われた「ティーチイン付き舞台挨拶」にて、「社会みんなのために動くCEOとの対比として、目の前のもののために動くドッジドライバーが置かれている」という旨が話された。
彼は、謎の黒いAIモルカーに追われるプロトタイプAIモルカー・カノンを身を挺して助けたり、相棒探しを手伝ってくれているポテトたちメインモルカーのピンチを凄腕ドライビングテクニックや装備で助けたりと、あまりにも屈強で前向きで頼りになる、スーパーヒーローのような人間だ。あまりにも強すぎて見落としてしまうのだが、たしかに彼はAIモルカーの普及による社会の変化だとかそんなものには興味を示さず、ただ「ドッジのため」を行動原理にして突き進む。手助けしてくれる人はおらず、ポテトたちと合流するまでは一人で行動していた。そして彼はニンジン農家なのだが、食糧難の世界にもかかわらずポテトたちに気軽にニンジンをあげられるほどニンジンのストックがある(流通用ではなく、身近なモルカー用に農業をしているタイプだった?)など、なるほどたしかに意識がかなり身内に寄っていると言える。
もちろん彼は「愚か」ではなく見える。身近な人に手を差し伸べる行為は、誰もが実行できる「愛」のひとつである。先日『僕のヒーローアカデミア』の完結巻が発売されたが、そこではこうして市民一人ひとりが困っている人に手を差し伸べることができる社会になれば、社会にヒーローはいらなくなっていく様子を描いていた。ドッジのドライバーの愛は、ヒーローではなく市民としての愛である。しかし、彼にはその愛が広がっていく先がない。なぜなら彼の周囲には人間がいないからだ。ポテトたちも彼に同情したから相棒探しを手伝っているわけではなく、彼の見た目がニンジンに近く懐いてしまったため、成り行きで手伝っているだけにすぎない。だから彼には、CEOのように社会を変える力はない。彼がどんなに活躍しても、モルカーが捨てられ、トラブルを起こしてしまう社会のままなのだ。
では、こうした2種類の愛の形についてモルカーたちはどう思っているのだろうか?
消えたドッジ探しの途中でAIモルカーの真実を知り、そしてその生産施設を壊してしまうポテトたち。CEOはそのピンチを切り抜けるきっかけとして、新たな空を飛ぶ移動手段「スカイエンジェル」をマスコミに発表、デモンストレーションで起動する。スカイエンジェルにはモルカーたちの心のデータを蓄積したココロカプセルが入っていた。このココロカプセルは二代目で、AIモルカーになって自我を抑えられ閉じ込められて悲しい気持ち、モルカーの愛らしさが失われたせいで人間たちがイライラしているのに対しておびえる気持ちなど、負の感情が詰まっていた。そのため、スカイエンジェルは人間を連れていくべきなのは「天国」だと分析し、人間を(途中からモルカーも)容赦なく自身に乗せはじめる。まさに、「人間は愚か」と判断したのだ。
初代ココロカプセルはどこにあるのかというと、カノンが持ってしまっており、そのせいで追われていたのだった。そして、カノンの中には探していたドッジが入っていたことが判明する。カノン=ドッジの奮闘によって、スカイエンジェルのココロカプセルが差し変わり、再度学習がはじまる。初代のココロカプセルには人間の愚かさの一方で、モルカーに対する優しさ=愛がたくさん記録されていた(ストップモーションアニメ版のシーンが挿入される)。ドジなドッジを愛してくれたドライバーの愛はもちろん、怪我をしたドッジを(捨てモルカーだと勘違いして)保護して手当てして仲間にしてくれたCEOの愛も一緒に刻まれていたのだった。つまり、ドッジはどちらの愛も受け取って特別なものと思ってくれていたのだということがわかる。
スカイエンジェルはこの再学習によって、人類を傷つけないように自爆する判断を下す。愚かなだけでない愛を理解し、まるでそこに自分がいらないことを察し、元のモルカー社会を肯定しているような結論だ。ダイナミックな爆発と、取り込まれていた人間とモルカーの解放、そしてドッジとドライバーが再会して、また社会は元に戻っていく。愛らしいモルカーたちが走り、トラブルを起こすが、それも微笑ましく思うような元の社会へ。
モルカーと人間を巡る愛に気づかせてくれたのは、間違いなくCEOの存在が大きい。ここで、「メニメニアイズ」という社名に立ち返ってみる。
日本語に直訳すると「たくさんの愛」(量の話)で、CEOの「社会のため」の大きな愛を表象しているように感じる。しかし、英語の「many」は加算名詞に付くもので、つまりここでの愛は「量」ではなく「数」が問われるのである。数にフォーカスするということは、いろいろな愛があるということだ。まさにわたしたちにとって、CEOはこれまで見てきたモルカーのドライバーのような身近な愛ではない、オルタナティブな愛の形を示して、その多様性に気付かせてくれた人である。本人はこれを意図していないだろうが、視聴者の目線からすると「メニメニアイズ」はかなりクリティカルで、本質的な社名であったなと感じる。
翻って、『MOLMAX』におけるドタバタの発端はCEOの愛の暴走であった。知能が低くすぐにトラブルを起こしてしまうというモルカーが持つ種としての「愚かさ」を許容できなくなったことへの対策に、モルカーを制御できるという人間としての「愚かさ」が発露した。わたしたち視聴者はそれに対して許容できずに、「人間は愚か」と呟く。
CEOはモルカーの多様さ(メニーさ)を制限してでも正しさを求めてしまった。だがこれと、わたしたちがCEOの愛の形を理解せずに「愚か」で終わらせ、人間の愛の多様さ(メニーさ)を狭めることは構造的に同じではないだろうか。ならば、人間の愛(とそれによる至らなさ)の多様性を認めることは、モルカーの多様さを認めることにも繋がるのだ。
言ってる内容は一緒のはずなのに、ツイートの方が勢いあってよかったかもしれない
個人的に特になるほどなと思ったのは「社会みんなのために動くCEOとの対比としてドッジドライバーが置かれている」ってこと。あのタイプって正義に思えるかもしれないけど、職業的に食料問題には貢献できはしてもモルカーたちの問題に対しては「目の前のドジなファミリーを愛す」しかできず
— たかくら (@osharose_) 2024年12月7日
他のモルカーたちには何もできはしないんだよな。まあヒロアカ的に言うとそれぞれが誰かのヒーローになれるのでみんながそうしていくと社会にとって良くなるよねとは思うけど、その拡散力はドッジドライバーにはない。だからたぶんあの後もモルカー世界は変わってない。
— たかくら (@osharose_) 2024年12月7日
シリーズ作品とかってモルカーみたいなオムニバスだとそこで話を進めず成長させずに終わらせる必要があって、たいていそれは無理な形を取るんだけど、モルマックスのこのリアリティある着地は今後のためにもいい終わり方だなと思った
— たかくら (@osharose_) 2024年12月7日
タクシーモルカーちゃんが猫に驚いて動けなくなりDJドライバーが怒っているけれどそれはそれとしてDJモルカーを好きにさせているのは「目の前の」型の一つの愛♡の形だし、人が手を差し出せる範囲は変わらずそれぞれよねーと思う。ただその様子を描いてるって意味でマジで底が深すぎるよモルマックス
— たかくら (@osharose_) 2024年12月7日
メニメニアイズ、そのままいくとたくさんの愛(量の話)で「社会のため」をとても表象しているけど、視聴者からするとCEOって「オルタナティブな愛の形を示してその多様性に気付かせてくれた人」になるので多様な愛(質の話)として読めるじゃん!!!ってこれ評論を一本書けますねやりますかね
— たかくら (@osharose_) 2024年12月7日
というか「many」をちゃんと調べたら可算名詞を修飾するものなのでそもそも数の話をしていて、たくさん(不可算名詞)だと「much」になるらしい。数にフォーカスする=個々の愛の量ではなく数(多様さ)ってことなので「メニメニ」はかなりクリティカルな社名なんじゃないかな
— たかくら (@osharose_) 2024年12月7日
まあ「人間は愚かなだけではない」なんてモルカーをちゃんと見ている人にとっては今更当たり前なんですが、キャッチ―なので使わせていただきました。
23:19追記
「メニメニアイズ」ってでもちゃんと複数形にしてるから自覚はあったかもしれない。そのあたりもしかしたらあえて省いて書いた会社の他メンバーのこととかがからんでくるかもしれない。
あと最後にいれるのを忘れたやつ
— たかくら (@osharose_) 2024年12月9日
「ドッジのドライバーは社会を変えられない」とは書いたんですが、最後にCEOが蒔いた種をモルカーと協力して育てていて、きっとあの大規模農園で育てたニンジンはたくさん流通していくと思うんだよね。→
→そしてもしかしたらあの光景を見たCEOは保護モルカーが元気になった時の行き先として斡旋してくれるとか、何か動いてくれるかもしれない。そうやって2つの愛が手を取り合えば、問題のひとつである食糧難は解決する(元のモルカー社会に戻る)だろうっていうハッピーエンドだったよね。
— たかくら (@osharose_) 2024年12月9日